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「リスクの正体!-賢いリスクとのつきあい方」 発売

手短に宣伝モード。先日お知らせした「リスクの正体!-賢いリスクとのつきあい方」は今日発売、らしいので改めて告知。どの書店に置かれるとかは知らないので、アマゾン等でお求めになるのが便利かと思う。よろしくー


作者: HYamaguti

更新日:2009年1月6日 16時15分

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AERA「2009年『100人の予言』」をいくつか拾ってみる

AERA2009年1月12日号の特集は「2009年『100人の予言』」。いろいろな分野の人がいろいろな分野について語っていていろいろな意味で面白い。内容は本文をお読みいただくとして、特に面白かった「予言」の見出し部分をいくつかご紹介。ひとことコメントも添えて。

予言じゃないっぽいのもずいぶん混じってるように思うが、まあ気にせず。

「株、不動産の次は会社が安売りされる」
藤田晋 サイバーエージェント社長
うむ。「株」は会社の一部、なんだがな。でもM&Aの好機であるという点には注目。
「正社員 VS. 非正規 仕事シェアで解消」
本田由紀 東京大大学院准教授
「非正社員や無業者と、正社員との処遇や移動のバリアを取り払わねばならない」と。ご主張はわかるが、2009年についての「予言」としては無理っぽい。
「GM化した日本を農業が救う」
小池百合子 衆議院議員
これも2009年に限っていえば厳しい。ただ方向性としてアリだと思う。「知識集約型の産業に多くの雇用は生まれない」という指摘は重要。
「米国はドル札を刷りまくれ」
藤原帰一 東京大大学院教授
「ばくちだけれど、そうでもしなければ金融収縮がますます進み、1期で共和党に政権を奪われかねません」と。その前にしなくてはならないことがあると思うんだが。
「テロを求める世論がある」
佐藤優 起訴休職外務事務官
「オバマさんにファシズムの影を見るんです」と。「みんな一緒に」がこわい、と。興味深い視点。
「『底』は10年半ば 日本は政策転換を」
北尾吉孝 SBIホールディングスCEO
「何らかの方法で世界の流動性のコントロールと金融商品リスクの明確化が必要です」と。同意。特に後者は議論の余地なし。
「期待感のない『アラハタ』に注目」
鈴木謙介 社会学者
「新しい若者論が出てくるでしょう」と。期待しない分絶望もない、のだろうか。果たしてそれはどんなものなのか。ようしよく見ていようっと。
「若者は連合の集会に乗り込め」
小林よしのり 漫画家
「今の若者が矛先を向けるべきは、経営者じゃない」「対立構造は資本家と労働者じゃなくて、労働者と失業者」と。単純化した二元論は危険だが、重要な指摘ではある。
「仕事は溢れている 目の前のこと精一杯に」」
国兼亜紀子 インテグレーション(キムカツ・ゲンカツ)取締役
「与えられたことをやり遂げることで、自ずと道は開ける。それが天職と思える仕事になるのではないでしょうか」と。氷河期組の弁であることは重要。ただし当初に「与えられ」るかどうかという視点も忘れまい。
「新卒も中途も氷河期は2、3年」
小笹芳央 リンクアンドモチベーション社長
「選考過程でかなり厳しい現実を店、それでも強い動機を持ち、即戦力になる学生を厳選するでしょう」と。新卒学生にとっての「即戦力」とは何か、対象者はよく考えよう。
「邦画バブル破裂で投資者は消える」
黒沢清 映画監督
地力のある人と、金がなくても平気といえる人は強い。山口流にいえば「へっちゃらだい!」戦略。
「若者の武士語は和語に発展する」
加藤主悦 椙山女学園大教授
「東京では既にかなりはやっており、今年は全国に広がるでしょう」と。初耳でござるな。はてこれは面妖な。
「不安からfunが生まれる」
中村隆紀 博報堂研究開発局主席研究員
「逆風を追い風にして、楽しさや新しい価値を生み出すのが09年ヒット商品のテーマではないでしょうか」と。あの業界の人はこういう語呂合わせが好きだね。
「ミシュランに今年も載らない店」
山本益博 料理評論家
「注目されているのは三ツ星のお店ですが、それがひとつしか増えていないのでは、08年版を買った人は09年版を買う必要がない」と。ある意味、そりゃそうだ。
「テレビとネットは自然と繋がる」
井上雅博 ヤフー社長
「思い切って著作権法を改正して『テレビで流したものはネットでも流していい。以上』とすればいいんです」と。こんな簡単にいくんならそもそも問題になってないんだけどね。
「イノベーション継続が宿命」
辻野晃一郎 グーグル日本法人社長
「ルールブレークが目的ではないが、ルールブレークしないと世の中は変わらない」と。確信犯、だな。
「2ちゃん潰れても2ちゃん的は残る」
ひろゆき 2ちゃんねる管理人
「雑誌も数万部で休刊というじゃないですか。ネットで数万のアクセスをとるのは相当難しいですよ。規模が大きすぎるだけなんじゃないかと思いますね」と。相変わらず的確に、痛いところに塩。
「ネットの次はテレパシー」
堀江貴文 ライブドア元社長
「ネットの世界は、15年くらい前に想定されていたものがほぼ出尽くしたので、今後はどう実用的に使うかが模索されていくでしょう」と。5年前に想定されたものはまだ出尽くしてないってことじゃないのか?
「『ゆとり』が再評価 競争から共生へ」
寺脇研 京都造形芸術大教授・元文部科学省大臣官房審議官
「ゆとり教育によって子どもの学習意欲が高くなれば、学力は自然に上がる」と。「なれば」な。
「国内の大学は『愚者の楽園』に」
榊原英資 早稲田大教授・元大蔵省財務官
「日本の大学生、特に文科系は、勉強しません」「若い人の能力を暫定的に測る客観的な指標は『学歴』なのです」と。少なくとも一部同意。元勉強しなかった文科系大学生として。
「節約進めば経済成長なし」
丸山晴美 節約アドバイザー
確かにそうなんだが、職業柄そんなこと言っていいのか?というか「節約アドバイザー」っていう職があるのか。
「『役立たない』科学が世界の『成熟度』表す」
福岡伸一 青山学院大学教授(分子生物学)
「科学とは本来、『役に立つ』ことを目指して出発するものではない」と。だからといって無条件になんでも、とはいかないよね。
「CO2削減は水力と直流で」
西澤潤一 首都大学東京学長
「水力発電で電力需要を賄い、直流送電することにより、解決への道が開かれると提唱している」と。ふうん。


とりあえずこのへんで。
本文もなかなか面白いのでぜひ。



作者: HYamaguti

更新日:2009年1月5日 16時15分

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はてブのコメントを採点するという一人遊び

ネットサービスの1つでソーシャルブックマークというのがある。自分ではほとんど利用しないが、「はてなブックマーク」、通称「はてブ」は、自分の記事に対する反響を見るためにけっこうよくチェックしている。ブックマークをつけるときにひとことコメントみたいなのができるようになっていて、各ユーザーの画面からはブックマークをつけた記事についてのコメントになっているわけだが、記事のほうのページをみると、その記事をブックマークしたユーザーのIDとともにそのコメントが並んでいるから、ちょうどコメント欄のようになる。

ずらっと並んだコメントを見ていて、既視感を覚えることがよくあって、何だろう何だろうとずっと思っていたのだが、最近思い当たった。

小テストだ。

職場で「Moodle」を使っている。オープンソースのLMSで、機能は充分とはいいがたいが、それなりには使える。で、そのMoodleには、オンラインで小テストや課題を出すという機能がある。問題を出して、解答をファイルで提出させたりするわけだが、短いものなら、直接書き込む「オンラインテキスト」を利用するのが便利だ。紙で書かせると整理がたいへんなので、利用できるときには使う。

一応テストなので、学生側からは自分の出したものしか見えないが、教員側の管理画面では、履修学生からの提出を一覧表形式で確認し、採点ができる。で、その管理画面には、学生からの解答の冒頭部がずらっと並んだ状態になっている。そのようすがなんだか、「はてブ」の画面にちょっとだけ似ているのだ。

そうなると、自分のブログの文章に対してついたブックマークのコメントが、なんだか小テストの解答のように見えてくる。自分の文章の一部を抜き出しているものは、「ここに注目」ぐらいの意味なんだろうからまあいいとして、特に自分なりのコメントを加えているものについては、どれどれ、とつい「採点」してみたくなったりするわけだ。こういうのも職業病の一種なんだろうが、まあ手ごろな一人遊び。あくまで一人遊びなので、はてなスターは使わない(よく知らんがあれって非公開設定にはできないんだよね?)。

人間さまざま、コメントさまざまで、実にいろいろな視点がある。よく読んだうえでまじめにコメントしているものがたくさんあってありがたい。気づかなかった視点や事実、誤りなんかを指摘してくれるものもけっこうあって、集合知だよなぁ、と思う。まっこうから否定するものも少なくないが、短い中にもこちらのいいたいことを咀嚼したうえで反論している場合などがあって、そういうのは、やはりとても参考になる。職場でやる小テストでも、自分の考えに合致するものだけを正解にするということはない。明らかな誤りは別として、考え方を聞く場合などは、ちがった考えでも説得力があれば高い点をつけている。なので、こういうコメントも、「得点」は高め。あ、あと、たまにやる「仕込み」に気づいた方々がネタばれコメントを共有してるのも、わかってもらえたことがわかるのでちょっとうれしい(そういうのをコメント欄でやられると台無しじゃん?)。

逆に「得点」が低いコメントもある。まるでずれてるもの、自分の視点に凝り固まって偏った見方をしているもの、そもそも読んでないだろうとしか思えないもの。批判的なコメントに多いのは、一部だけ(タイトルだけ?の場合も)読んで反論してるみたいなもの。脊髄反射的なコメントなのかな。文章の最初のほうしか読んでないと思われるものもある。長い文章が苦手なんだろうか(個人的にはあんまり長い文章とは思わないんだけどね)。「お前はこういう考えなんだろう」と勝手に決め付けて(しかもまちがってる)批判してくるのも閉口するな。あと、「これは釣りじゃないか」と思えるほどの大絶賛コメントもたまにあって正直こわい。

こういうサービス、実装してもらえないだろうか。上から目線の「教員気分」を味わいたいのであればブックマークコメントの横に「10点」とか数字をつけられる(自分しか見えないように)ものがいいのだが、難しければ、「はてなスター」で自分のつけたスターをちがう色にしてもらうくらいでもいいかも。


作者: HYamaguti

更新日:2009年1月5日 4時30分

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博士今昔

「博士」という学位がある。一般的には「はかせ」と発音することが多いが、学位としての「博士」は「はくし」と読むのが正しい。このあたりまではWikipediaにも書いてあるものの、なぜそうなのかまでは知らなかったのだが、最近たまたま、1888年6月20日付朝日新聞の記事にその由来が出ていることを知った。

ちなみに。上のリンク先のWikipediaの記事には「国立国会図書館と国立情報学研究所が作成している「博士論文書誌データベース」で国内の大学で授与されている博士論文の検索ができる」とあって、どれどれと見てみたら、ちゃんと自分のもあって安心した。

それはともかく。記事は朝日新聞社編「朝日新聞の記事にみる奇談珍談巷談」朝日文庫、1997年より。学位としての博士は、日本では1887年の学位令によって定められた。最初の「博士」が誕生したのは、1888年5月9日のこと。6月20日付の記事は、それに関する解説として書かれたらしい。

学位令にある博士と云ふ文字の発音方は従来唱へ来りたる如くハカセと読む事と思ひの外ハクシと発音する事になる居る由今其所以を尋ぬるに博士と云ふ文字は我邦に於て従来ハカセと読み来りしも是は官名にして学位にあらず其文字を学位に用ふるは今回が始めにて今日の博士は昔の博士と全く無関係なれば其区別を明かにせんため斯くはハクシと読むことなりと尤も此の発音方は主務大臣の厳命なりと云ふ

「大臣の厳命」だそうな。このとき学位を授与されたのは25人。まさに「末は博士か大臣か」だった。今の学制による学位はその後、1947年の学校教育法によるものだが、読み方は学位令のときのものを引き継いだのかな。今の博士は明治時代の博士ともちがうんだから、また別の読み方を考えてもいいのかもしれないな。(ちなみにこの人の名は同じ字で「ひろし」と読む。我田引水っぽいがこれなんかどう?)

今日本にどのくらいの「博士」がいるのか知らない。「博士が100人いるむら」では、毎年11000人の博士が生まれると書いてあるが、文部科学省の平成20年学校基本調査をみると、今は毎年16000人ぐらいらしい。昔はもっと定員も少なかったろうし今と比べて学位をとるのが難しかったから、たぶん十万人の単位でそう大きくないくらいの数なんだろう。だとするとけっこうな数だ。

最近は博士の就職難の話がけっこう知られるようになってきた。そもそも今の博士というのは、大学を卒業した「学士」と同じように学位の一種であって、これがなければ仕事ができないという資格ではないし(最近の大学教員とか研究職の一部はそうなりつつあるが)、これがあれば就職できるというものでもない。大学を出たら就職できるという考えが幻想であるのと質的には同じだ。大学院に限らず、教育機関でも「誇大広告」の問題はあるのではないかと思うが、それにしても、ご本人たちの期待が肥大してしまっている部分があることは否定できない。

とはいえ、無駄だとも思わない。人に聞かれたらこう答えているが、問題意識と意欲と覚悟を持った人にとっては、大学院で学ぶ経験は大きな力となる。だから気にしなければならないのは、そこで何を与えてくれるかではなく、そこで自分が何をつかみとるかだ。一部の例外を除けば、誰かが責任をとってくれるわけではないので、進学を検討中の方はぜひご自分でいろいろ考えていただきたい。



作者: HYamaguti

更新日:2009年1月4日 8時45分

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ネットに「子どもの遊び場」を用意するということ

インターネットの中で、一般社会で受け入れられているルールが守られずに問題が起きる、という構図はよくある。たとえば著作権侵害の問題とか、プライバシー侵害の問題とか、犯行予告の問題とか、ネットいじめの問題とか、まあ他にもいろいろ。匿名性が問題なのだとかデジタル技術の特性だとか、教育がなっとらんとか法整備が必要だとか、いろいろなことがいわれていて、それぞれなるほどと思ったりそうかなーと思ったりいろいろあるが、とりあえずはおいとく。そういった「問題」の発生しているところを見ていて、つい連想する光景がある、という話から。

たとえば幼稚園、のような場所を想像していただきたい。小さな子どもたちが遊んでいて、それを先生たちが見守っている。その中で何人かの子どもが、いたずらを始めた。しばらく放置していた先生が、やがて見かねて注意する。「それはいけません。やめてね」と。子どもたちは「はーい」とか「ちぇー」とかさまざまに返事をしていったんいたずらをやめるが、またすぐ別の場所でいたずらをはじめる。それを見たほかの子どもたちもいたずらを始め、やがてだんだん場が荒れてくる。とうとう先生が「やめなさい!」と一番ひどいいたずらっ子たちをきつく叱り、その子たちが「えーん」と泣き出すと、他の子どもたちはいたずらをやめる・・・

とまあ、こんな光景。いや別に、ネットで悪さをするのはガキだとかそういうことを言いたいのではない。社会が「悪さ」とみる行為をしている人の中には、実はなんというか、ある意味「子どものルール」で動いている人がけっこういるのではないか、ということだ。

たとえば、幼稚園で子どもたちが「世界一有名な鼠」の絵を絵本から写し取って描いたとしてもその名のついた歌を歌ったとしても、当然ながら著作権者がどうこう言うことはない。もちろんこれは著作権法上問題のない行為だからなわけだが、子どもたちの目には、著作権などというものはそもそも存在していないかのように映っているはずだ。また、子ども同士のけんかが暴行罪に問われることは普通ない。上と同様に、これも通常は法律問題にならないだろうから当然なのだが、子どもたちにとって、けんかしたら逮捕されるかもしれないなどという発想は現実味をもってとらえられていないだろう。悪口も同様。けんかともなれば「ばか」「死ね」「ぶっ殺す」ぐらいのことばが子どもの口から聞かれることはよくあるが、だからといって侮辱罪やら脅迫罪やらにはならない。

つまり、「子どもの世界」では通常、法律が直接介入してくることはない。少々のことなら見逃してくれるし、度が過ぎてトラブルが起きてもたいていは「ごめんなさい」ですむ。自分たちがやっていることはその場だけ、自分たちだけの間のことであり、外部には影響しない。仮に何かあったら誰かが後始末をしておいてくれる。子どもの目に映る世界とは、おそらくそういうものだ。

どうもネットで「悪さ」をしている人たちが、そうした「いたずらっ子」たちとかぶって見える。何度削除されてもアカウントを変えて動画をアップロードし続ける人、掲示板にひたすら暴言を書き込み続ける人、ネタで犯行予告を書き込む人。たとえば、ニコニコ動画にアップロードされている動画の中には、よく「ようつべより」とかいったものがある。要するに無断転載だが、この能天気さからは、他人の権利を侵害してやろうという「悪意」よりもむしろ「こっちでも見られるようにしといてやるよ」といった、同じ場で遊ぶ仲間への「善意」めいたものを感じる。2ちゃんねるでの暴言の応酬も、仲間内のふざけ合いとみたほうがいいのではないかと思われるものが少なからずあるし、犯行予告でこれなら逮捕されないというギリギリの線はどこかを探ろうとして逮捕される人も、仲間うちでのチキンレースめいた自慢競争やネタ作りに走りすぎたあげくの失敗のように見える。

もちろん、だから彼らは悪くないというのではない。法令違反は法令違反だし、人に迷惑をかける行為は迷惑をかける行為だ。大人なら当然自分の行為の責任をとるべきだし、子どもでも事と次第によってはお咎めなしとはいかない。しかし実際のところ、こういったものを正面から抑え込もうとすると、技術的ないしコスト的な面からみてなかなか難しいのではないか。何せ相手は「いたずらっ子」なわけで、叱りつけようと躍起になる「大人」たちを出しぬくチャンスとあれば、これはかえって火に油を注ぐようなものだ。それに、あまり厳しく活動を制約しようとすれば、表現の自由とか言論の自由とか、そういった別の「大人の事情」にぶつかったりする。逆に、すべて自由にしてしまえ(たとえば著作権自体を廃止せよみたいな)といった主張もあるが、正しいかどうか別として、少なくとも近い将来その方向で合意に至る可能性はなきに等しい。ネットをどう扱うかという問題は現代社会でけっこう重要なテーマかと思うが、難しいのは対立するいろいろな考え方があって意見がまとまらないからだ。

これを「大人のルール」と「子どものルール」の摩擦、みたいにとらえてみたらどうか。いってみれば、本来子どもの遊び場所でない「大人の場所」で子どもたちが遊んでいる図、というわけだ。「大人」の世界では「大人のルール」を守る必要があるがどうせいったって聞かないし、無理やり聞かせようとするとかえってトラブルになる。それに「子どものルール」にもそれなりの意義があっていちがいに否定すべきものでもない。

となると、「大人」がすべきことというのは、大人たちの迷惑にならないように配慮しながら、「子どもたち」のための遊び場を用意すること、となるのではないか。ある一定の「領域」を決めて、その中ではできるだけ自由に活動できるようにする。ただしそこはいつも「大人」に見守られていて、何か問題があれば介入を受け、度を越した悪いことをすれば叱られたり、場合によっては罰を受けたりする。なんらかの方法でそうした場をネットの中に確保してやることで、「大人のルール」と「子どものルール」が共存できる環境を作り出すことはできないだろうか。

いうのは簡単だが、実際にはそんな簡単な話でない。「子どもの世界」が楽しく憂いなくあるためには、まわりで「大人」たちが「大人の世界」でいろいろ準備したり、支えたり、見守っていたりしてあげないといけない。法律問題やコスト負担、権利調整にトラブル処理など、やらなければならないことはたくさんある。もちろん、できないことだってあるし、「大人」が実力をもって介入すべきときだってあるはず。実際の子どもとはちがって、ここでの「子ども」は実際には大人である場合も多い。同じ人が「大人のルール」の世界と「子どものルール」の世界を行き来するわけだから、問題はなおさらややこしい。

とはいえ、すでにそれに近い考え方が実現していることもある。たとえばニコニコ動画やYouTubeがJASRACと契約して、そこに投稿されたJASRAC管理楽曲の演奏動画に関する著作権料を支払うようにしたのは、そうした流れの1つとみることもできる。動画に関しても、一部の権利者は一部のMADを公認する動きが出ているし、UGCを活用したキャンペーンなどでは素材を提供して作品を作らせるものがけっこうあるが、権利処理のしくみが一般化し、利用しやすくなれば、音楽の場合と近い状況になっていくかもしれない。コミックマーケットで二次創作の同人作品を売るのも、ぎりぎりその範疇に入っているのではないか。

もちろん「子ども」を自由にさせてやろう、というばかりではない。「子ども」であるがゆえに制約を受けるべき部分もあるはずだ。現在すでにある法律、提唱されている法案などにもこれに似た考え方はあるが、すべて一律にという決め方は、たとえどう決めたとしても、どこかに不満が残る。法律が必要最小限として「青少年(本来の意味での)を守る」ためのルールを決めるのはいいとして、それ以外に、分をわきまえた「いたずらっ子」たち(未成年者だけでなく成年者も。なんかby definitionでおかしいような気もするが)が安全に遊ぶためのしくみというのも、なんらかのかたちであったらいいのではないかと思う。「世界一有名な鼠の国」では、大人たちも(もちろん本来の意味での子どもたちも)、鼠耳帽子をかぶって子どものように遊ぶために、そこで守るべきルールに嬉々として従うではないか。権利と義務、自由と保護について、合理的なトレードオフをもった複数の選択肢があったほうがいい、ということだ。

ネットに関連して起きる問題の少なからぬ部分が「ルール」間の摩擦に起因しているというのはそれほどずれていないように思う。どちらか一方に合わせるかたちで調整するのはなかなか難しいという点も。「子どものルール」になぞらえて考えることは、それが唯一の正解だというつもりはないが、少なくとも調整のあり方に関する1つの「たたき台」にはなるのではないだろうか。

※2009/01/05追記
はてなブックマークに「この手の論者の常として」というコメントがあって興味深い。私は「どの手」の論者なんだろうか。「ルールとは時代に応じて移り変わっていくものと言う観点が足りない」そうだが、ちゃんと読んだのかね。

作者: HYamaguti

更新日:2009年1月5日 2時37分

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なぜ「リアリティ」に餓えるのか

2008年12月31日付朝日新聞に、社会学者の見田宗介・東大名誉教授のエッセイが出ていた。「リアリティーに餓える人々」というタイトル。2008年6月に秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、「この事件が、日本社会のどのような変化を表しているのだろうか」というのがテーマ。まあ年末恒例の世相読み解きものというわけだ。読んでいて「ん?」とひっかかっるものがあったのだが、いろいろ考えてみると触発されるものがあって面白かった。たぶん素人考えなんだろうけど。

このエッセイでは2008年の秋葉原の事件と、1968年に起きた連続射殺事件を並べて、時代の変化を説明する。同じように犯人が若者で、犯行が無差別で、動機がわかりにくく、その背景にアイデンティティの問題があることでも共通。でも決定的にちがうことが2つ。ひとつは「未来」。1968年の事件は「明るい未来」を信じられた時代であったのに対し、2008年は「明るい未来」が見つからない。もうひとつは「まなざし」。1968年は社会や身の回りの「まなざし」がまとわりつく時代、2008年はそれがなくなってしまった時代。これら2つを合わせて「空気」の「濃い時代」と「薄い時代」と整理している。どちらが悪いというものでもないが、どちらも行き過ぎると問題が出る。2つの犯罪はそれぞれそうした背景で起きたのではないか、と。

で、こうまとめている。

・・「薄くなりすぎ」、また、仮想世界に居直った「バーチャルな時代」の中で、リアリティーというか、古典的な現実への餓えが、この国に充満し始めたことが明らかになり、「バーチャルな時代」が臨界点に達したということを、Kの事件は象徴しています。

「K」は秋葉原の事件の犯人を指す。90年代後半以降は「バーチャルの時代」なんだそうだ。「電子メディアの発達で、古典的な現実なんてものにとってかわって、バーチャルな世界だけで、人間は、幸せにやっていけるんだと多くの人は思い込み、虚構に居直った時代」という意味(ちなみに1945年から60年ころまでが「夢の時代」、そのあと90年代前半までを「虚構の時代」と呼ぶのだそうな)。それが限界にきた、と読み解いたわけだ。で、方策はというと、「人を殺したり、自分を傷つけたりするのとは別の仕方で、生きるリアリティーを充実する仕方を青年たちが見つけることができれば、もう一つ新しい時代が開かれる」んだってさ。

うーん。「バーチャルな時代」というのはどうも紋切り型な感じがしてなんとなくやだなー、別に居直ってなんかいないけどな、などと思った。短い文章だからということもあるんだろうが、どうも都合よく丸めこまれたような感じがするな、と。で、考えてみた。

とっかかりは、「いったいなぜリアリティに餓えるのか」という点だ。

だってさ、リアリティって、目の前にあるじゃん?

もちろん、これは「リアリティ」の定義による。日本語で「現実」と置き換えてみると、最初に「いま目の前に事実として現れているもの」(Wikipedia)と説明されているが、そのあとながーい解説がついていて、いろいろな文脈でちがった意味合いを持っている(ちゃんと比べてないが英語版のWikipediaでも似たように解説されているように思うのでほぼ同等と考えておく)らしいことがわかる。

で、その「目の前に事実として現われているもの」という定義を採用するなら、誰の目の前にも、いつでもどこでも、現実はある。金が有り余って何に使っていいのかわからないのも現実なら、派遣契約を中途で解除されて路頭に迷うのも現実。何もすることがない退屈な日々を過ごすのも現実だし、イランまでのこのこ出かけていって武装集団に誘拐されるのも現実。

だからもちろん、人々が「餓え」ているのは、そうした意味の「現実」ではない。そうあってほしい、本来そうあるはずだと考えられる何かだ。むしろ「現実感」に近いだろう。これを以下、仮に「リアリティ」と呼んでみる。つまり、今目の前に見えている「現実」は「リアリティ」ではない、現実感が感じられない、というわけだ。本当の自分はもっと別な姿、別の状態にあるはずだ、リアリティが感じられるのは、今見ているものでないもっと別の何かだ、と。

「餓え」ということで食べ物にたとえれば、今目の前に食べ物らしきものがあるが、これは実際には食べられない偽物であるとか、食べられるがすごくまずいとか量が少ないとか、あるいはあるはずの食べ物が隠されているとか、そういうふうに見えるということだな。だから餓えているわけだ。

この「本来あるはずのリアリティ」と「今実際にある現実」との差は、どこから、そしてなぜ生じたのだろうか。

見田氏は、かつてはあったものが時代の流れとともに失われた、というスタンスだ。高度成長期には、誰もが将来を明るい姿で想像し、かつ社会の中の強い結びつきがまだ生きていた。人々はその「現実」を「リアリティ」をもって受け入れていた。しかしそれがその後の成長の鈍化や社会の変化によって失われ、それとともに人々は「現実」を愛さなくなり、「虚構」でその穴埋めをする時代を迎えたと。その「虚構」に満足できず、「リアリティ」を求めたのが1968年の事件。その後ネットの中の「バーチャル」で満足するようになったのが現在であり、その「バーチャル」に満足できず「リアリティ」を求めたのが2008年の事件。どちらも、実際にある姿としての「現実」を否定し、あるはずの姿としての「リアリティ」に餓え、それを求めて犯行に至った、との分析と解釈したんだがどうだろうか。

この図式に従って考えると、いえることがいくつかある。1つめ。まず、「リアリティ」への餓えは最近始まったものではないということ。経済や社会の状況はかなりちがっていても、40年前にはすでに「あるはずの姿」と「実際の姿」には差が生じており、それは象徴的な事件が発生するほどの状態に達していたのだ。つまりこの問題は最近になって生じた話ではないということになる。2008年の事件も、直接のきっかけはともかく、その源流はずっと前からあったと。より若い世代の論者はここまで遡ったりしないことが多い。世代論はできるだけ避けたいと思うのだが、このあたりは高度成長期を肌で知っている強みなのかもしれない。

2つめ。時計の針を無理やり元に戻せばいいというものではないということ。状況が昔とちがう以上、元通りにすることはできないというのは当たり前だが、それだけではない。見田氏は、過去を単に「古き良き時代」とは見ていない。不合理な慣習、個人を制約する人間関係など、「空気の濃い」時代にはそれなりに問題がたくさんあったのだ。それらと決別することによって私たちが獲得した「空気の薄い」現代社会は、ある意味で進歩でもある。これもまた、考えてみれば当然のことでありながら、「それ以前」を知らない若い世代の論者があまり触れたがらない(意図的に?)点ではなかろうか。

最後に、問題の解決はバーチャル世界をどうかすることではなく、現実世界のほうでどうにかしなければならないということ。バーチャルなものが発達したために人が現実から離れたのではなく、「現実」から「リアリティ」が失われたためにバーチャルに走らざるを得なかったのだ。「現実」と「リアリティ」の乖離が問題であるのだとしたら、対策としては「現実」そのものを変えること、「リアリティ」についての認識を変えること、またはその双方ということになろう。見田氏は、「生きるリアリティーを充実する仕方を青年たちが見つけること」としているから、どちらかというと後者の方だ。実際、この点はとても重要だと思う。乖離の種類や度合は、人によってちがう。根拠のない期待や必要以上の恐れを持たされてしまったために厳しい現実を受け入れられずにいる人もいれば、守られすぎた環境ゆえに自分が直面する現実を虚構と感じてしまう人もいるだろう。

もちろん、社会の中での資源配分のやり方にも問題があるとの指摘はあちこちでなされていて、それぞれそれなりに説得力がある。個人にすべて負わせてしまうのは公平とはいえない。しかし、資源配分がどのように歪んでいるかについては、所得階層、職種、年齢層など、分け方がいろいろあって、人によって考え方がずいぶんちがうから、社会的合意を形成するまでには時間と手間がかかるだろうし、何か変わったとしてもそれが自分にとって納得のいくものであるという保証はない。「百年河清を待つ」ということばがあるが、社会が自分の納得できるように変わるのを待ってはいられないというのであれば、まず自分で変えられる部分から変えていったほうがいい。

ただ、見田氏が「生きるリアリティーを充実する仕方」を見つけなければならないのを「青年たち」と限定してしまっているのは、短い文章とはいえどうかと思う。世の中の多くの問題は、傍から見るより複雑で、いろいろな原因があり、さまざまな要因が関係し、多くの人がかかわっている。単純に「○○が××すればいい」と片付けてしまうと、他の多くのものを見失ってしまうことになりがちだ。

「現実」に「リアリティ」を感じられないのは若い世代だけだろうか。40年前、銃の乱射には走らなかったものの同じような「リアリティへの餓え」に直面していたはずの数多くの「青年」たちは今、いまや高齢者の仲間入りをしようとしている。今の彼らは「リアリティ」に餓えていないのだろうか。下の世代からみれば「勝ち逃げの世代」とみられる彼らだが、その中にもさまざまな境遇の人がいる。もし「リアリティへの餓え」が「現実」と「リアリティ」との大きな乖離に起因するのであれば、それは若い世代だけに限られるものではない。

「餓え」は、「これは食べ物ではない」という本人たちの選り好みだけで起きるのではなかろう。ならば「社会の中に食べ物は充分にあるのか」という絶対量の問題、「食べ物は社会の全体に行き渡っているか」という偏在の問題を考えることも必要なはず。「リアリティ」という食べ物に餓えた人は、たくさんいる。その意味で、社会の中核でさまざまなものごとを決められる立場にいる人たちの責任は大きいといわざるをえない。

素人の与太話はここまで。この分野は専門の方がたくさんいるはずなので、ぜひ教えを請いたい。

作者: HYamaguti

更新日:2009年1月1日 18時29分

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「メディアリテラシー」に新たな定義が必要かもしれない

「メディアリテラシー」ということばがある。Wikipediaには「情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」と定義してあって、そもそもWikipediaをソースとして使うこと自体がメディアリテラシーの観点からは問題になりうるのだろうが、この定義はよく見かけるものとさほどちがわないように思うので当面これを使っておく。他の定義もいろいろあって、最近は発信者としての個人に着目するものも少なくない(英語版のWikipediaはその色合いがより強い)が、まあそれはそれとして。

でも最近、もう1つ、新たな意味が必要なのではないかと思ったりすることがある。それは、「メディアの人たちのリテラシー」だ。

メディアリテラシーということばは、なんだかんだいっても、マスメディアが発信者、個人が受信者という図式をデフォルトとして念頭においているように思う(歴史的な経緯からいえば当然だろう)。上記のWikipediaには、情報メディアで伝えられる情報に物理的な制約、主観によるゆがみ、情報操作などがあって、情報を受け取る側がそれらを適切に読み解かないといけない、という趣旨のことが書かれている。本来、「リテラシー」(literacy)ということばは識字能力を意味するが、ここではそれが拡張されて、弱者である情報の受信者側が、強者である発信者の意図や背景を読み取る「能力」を持つべき、ということになる。発信者側の人たちは、情報を適切に発信するための充分な能力がありながら、制約や主観や意図のためにそうしないかもしれないからだ。

そこに最近はもう1つの要素、つまり発信者側の「リテラシー」を問う流れが加わってきている。理由はいろいろあろうが、特に影響力の大きい要素は、最近のインターネットの発達と普及だろう。情報の発信に要する技術的要件やコスト上の制約が大幅に緩和され、文字通り「誰でも」、情報を広く世界に発信することができるようになった。もちろんほとんどの人が発信する情報は、それ自体ではたいした影響力を持たない。しかし内容によっては注目を集めたり誰かに損害を与えてしまったりすることもあるし、個々には小さな声でも集まれば大きな力を持ちうる。そうした力を得たことを個人個人が意識しよう。そういう流れだ。

そこまではいい。でもちょっと待てよと思う。本当にマスメディアは「強者」なのか。そもそも「発信者」なのか。

ちょっと前に起きた厚生労働省元幹部及びその家族に対する殺傷事件の際、毎日新聞がWikipediaの時刻表示を読み誤って誤報を打ったケースは、ネットのあちこちで批判やら嘲笑やらを巻き起こしたが、似たような例を探せばたくさんあるだろう。特定の記者や会社をあげつらってもあまり生産的ではない。そのへんの構造的問題については、元「中の人」である藤代さんがうまくまとめているのでご参照

人々の活動がだんだんネット上で多く展開されるようになってくると、「ニュース」もネットの中で発生するようになる。この新しい領域に対して、マスメディアの中には、充分な知識を持っていない人たちもたくさんいる。そういう人たちが伝えれば、情報が不足したり、歪んでいたりすることは充分にありうるし、実際にそうした例はたくさん起きている。上記の例もその1つだ。彼らはこの分野の情報を収集、理解し加工する能力(つまりリテラシーだな)に関しては、必ずしも強者ではないのだ。

しかし問題はそこで終わらない。原点に立ちかえってみる。そもそも、ネットの領域以外でも、マスメディアの人たち自身の「リテラシー」が充分な水準にあったのかについては、議論の余地がある。彼らが発信する情報のほとんどは、実際には外から集めてきたものだ。それを咀嚼し、加工していく段階で、多くの情報が失われ、改変されるが、そこにかかわるのは物理的制約や主観や意図だけではない。知識や理解の不足も実はかなりの部分を占めているはずだ。少なくとも個人的な経験からは、そういえる。それぞれの分野で情報源となる専門家の方々も、きっと似たような考えを持っているのではないかと思う。

これまでのメディアリテラシーは、マスメディアが「強者」であるがゆえに情報の受け取り方を考えようというものだった。しかしここは、情報の「創造」と「伝達」(別のいいかたをすれば「コンテンツ」と「メディア」だ)を分けて考えるべきではなかろうか。その意味でいえば、マスメディアは情報の「伝達」における強者ではあっても、「創造」における強者では必ずしもない。この点に関して、業界の人がよくいう「最近の若い社員は」論にはあえて与しない。むしろ以前からそうだったのではないか、と問いたい。

最近までこのことはあまり意識されなかった。なぜか。情報源に直接アクセスすることができず、比較ができなかったからだ。しかし今はちがう。マスメディアが情報源としている当事者や専門家が、自分がコントロールできるメディアであるウェブサイトから、自分のことばで直接外部に向けて発信していくことができるようになり、実際に多くの人たちがそうするようになってきている。そうなってくると、不完全な知識や理解をベースに歪んだ意図を加え、さらに情報量に物理的な制約を加えられたマスメディア経由の情報は、受信者にとって、アクセスの容易さという面では今でも優位を保っているものの、その情報としての質という面で優位を保つのは難しくなってきている。

上記のメディアリテラシーの定義では、「読み解く」ことがカギとなっている。伝えられる情報の背景や意図を推し量る、つまり行間を読めということだ。しかし現在では、その意味合いがややちがってきてた。オルタナティブなメディアがすでにたくさんできているからだ。となると、不充分な情報を「読み解く」必要は必ずしもなく、むしろ数多くある情報を「さがす」「選ぶ」「組み合わせる」といった能力が重要となる。もちろん質は玉石混交。生の情報はしばしば読みにくいこともあるし、手間もかかるかもしれないが、そこはよくしたもので、「別の視点」からまとめようという人たちもたくさんいる。要するに、マスメディアの情報を苦労して読み解く必要は減ってきているのだ。

おかげでマスメディアの側は、めんどくさい状況に陥った。情報の「創造」と「伝達」が切り離されたために、「創造」部分では必ずしも強者ではないことが明らかになってしまい、かつ「伝達」部分でも新興メディアにその地位を脅かされているわけだ。これ自体はよくあるデジタルコンバージェンス論だが、メディアリテラシーに即して考えると、マスメディアはこれまで以上のリテラシーを持たないと情報源として選択されなくなるよ、という結論になる。それは新しい時代の流れについていこうという前向きな話ばかりではない。これまであった「隠れ蓑」がなくなったために露呈してしまった問題に対処しなければという話でもある。

こういうことを書くと、「マスコミ」を「マスゴミ」と言う人(ネットでは特によく見かけるねこのことば)と同列に見られるかもしれないが、そうではない。マスメディアを叩いている人の多くはむしろ、マスメディアを高く評価しすぎなのではないか。あるべき理想の姿とちがっているから叩くのだろうが、そもそもマスメディアはそれほど「神格化」されるべき存在ではない。メディアに過剰な期待を抱かないこと、これは従来からいわれていたメディアリテラシーの延長だよね。


作者: HYamaguti

更新日:2008年12月30日 16時7分

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学習ゲームにおける「古くて新しい」1ジャンルの話

ニコニコ動画には、ゲームのプレイ動画と呼ばれるものがたくさん投稿されている。アクションゲームのようなものであれば、プレイ動画は主にプレイヤーの技量を見せたいということなんだろうが、セリフの多いRPGやノベルゲームなどでは、音楽や声、効果音などの入った紙芝居のような状態になる。本来ゲームも著作権の対象となるわけなので、自動公衆送信権の侵害になるおそれがあるのだろうが、アニメなどとちがって権利者側があまりうるさくいわないのだろう。ゲームの面白さというのはなかなかパッケージなどでは伝わらないからなのかもしれない。

ふーんなるほどねぇ、といろいろ見ていたら、いつのまにかもう1つの「世界」にまぎれこんでしまって。以下、リンク先には18禁のものが含まれるので要注意。基本的に「お子ちゃまはだめ」ということでくれぐれもよろしく。

もう1つ、というのは、要するに「エロゲ」、つまり18禁ゲームのこと。ニコニコ動画で「エロゲ」というタグのつけられた動画は、今調べたら17,888件公開されている。「ゲーム」というタグのついた動画は735,988件(全動画数は1,949,833件だからゲーム関連動画はその半数近いということになるな)あるからそれと比べればごく少数だろうが、それでもけっこうな件数といえる。

この種のゲームについてはまったく知らなかったのだが(だってそこらじゃ売ってないし、CMが流れるわけでもないじゃん)、おかげでどんなものかを知ることができたわけだ。もちろんニコニコ動画では過激な映像は出てこないわけだが、ストーリー部分はだいたいわかる。印象として学校ものが多いようだが、最近の動きでいえば、いわゆる「準児ポ」にあたるんだろうなそういうの。

基本的に静止画なんだなとか(これは安くつくな)、女性キャラクターだけ声が入ってるんだなとか(BL系だと男性キャラクターだけ。実にわかりやすい)、いろいろ面白いところはあったんだが、最も驚いたのは、「学習ゲーム」と呼ぶしかないジャンルのものが含まれていた件。それがSQEEZの「おしえて!唯子先生」。先生(女性)が性教育に関する授業をしてくれる(この部分は至ってまじめ。そのあと「実習」(!)があるらしいのだが、当然ながらその画面のプレイ動画が出ているわけではない)。「授業」の内容が情報として正確なのか(適切なのか、という視点もあるがな)どうかよくわからないが、もしそうなら、これは学習ゲームとしてなかなか面白いのではないか。こういう分野はなかなか改まって学ぶ機会がないが、実際のところ、いろんな意味でとても重要だ。学校の授業にも一部はあるのだろうが、あまり熱心にやる学校もなさそうだし、聞く側だって周りの目が気になって真剣に聞くのは難しいだろう。むしろ家で1人で、のほうが向いてる。

ついでにもう1つ。最近発売され、なんだかえらく売れてるらしい(参考)unicorn-aの「戦極姫~戦乱の世に焔立つ~」。戦国武将が美少女キャラクターになるというぶっとんだ設定も、「大奥」が抵抗なく受け入れられる「度量」のあるこの国の文化の下ではさしたる支障にはならないのだな。もちろんこれは学習ゲームではない。主人公は軍師として武将である美少女に仕えていろいろあって、という展開のRPGらしいが、登場する武将の数がなんだかえらく多くて設定も妙にマニアック。作った人は歴史ものがそうとう好きなんだろうな。もちろん史実そのままではないだろうから知識の面で直接役に立つ部分は少なかろうが、それでも歴史への関心を高めるという面ではそれなりに効果があるのではなかろうか。

もちろん、こうしたゲームを学校教育に使うことはありえないし、使う必要もなかろう。親が勧めるとも思えないし勧めるべきでもない。基本的には大人が、(おそらくは)自宅で、ということになるんだろう(「30歳の保健体育」に近い路線か)。しかし、「一線」は引かれるにせよ、これらの「学習エロゲ」ないし「学習に役立つかもしれないゲーム」というのは、たとえば「萌える英単語もえたん」とか「マンガでわかる統計学」みたいな路線と本質的に地続きであると考えたほうがいいのではないか。そこに共通して流れているのは「とっかかり」と「インセンティブ」。要はどうやって勉強に向かわせるかと、どうやって目の前にニンジンをぶら下げるかということだ。

「イノベーション」は「生産要素の新結合」なわけだが、そういう意味ではこれもまたイノベーション。当然、女子向けも考えられよう(ひょっとしてすでにあるのか?)。ともあれ今後の展開に要注目。

以下は18禁でないので念のため。


作者: HYamaguti

更新日:2008年12月30日 6時37分

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もしストリートビュー撮影車のスケジュールがあらかじめわかっていたら

グーグルマップの新しい機能「ストリートビュー」に対して、主に肖像権やらプライバシー保護やらの観点からあちこちで議論が起きている。グーグル側は公道から撮影すると言ってるが私道にも入り込んでるし(私の家の前も私道だがしっかり撮影されてる。そもそもある道路が私道であるかどうかのチェックなんて本気でするとは思えない)、顔をぼかしたって服装やら場所やらで個人が特定できる場合は少なからずある。本来、公共の場所を撮影して公開する分には法的に問題ないし実際にも問題にならない場合が多かろうが、それを「点」ではなく「線」や「面」で全国的に行うと「量」ではなく「質」の問題となるから話は別という主張もあって、それなりに説得力がある。とはいえ、それ自体違法というわけでもなさそうだし(違法だという主張もあるようだが素人目にはあまり説得力を感じられない)、これによって恩恵を受ける場合もあるし、将来的に新たな可能性もあろうから、単に否定すればいいというものでもないと思う。

どうすりゃいいんだろうねなんてことをつらつらとない知恵絞って考えていたら、いつもの癖でつい不真面目な方向に妄想が。

もし、もしストリートビューの撮影車のスケジュールがあらかじめわかっていたら、どんなことが起きるだろうか。

想像するに、ストリートビュー(以下「SV」)に対する不安とか不満とかいうのは、隠し撮りに対するそれに一番近いのではないか。どこを撮られているかわからない、という不安。いつ来るかわからないから対策をとれないではないか、という不満。もちろん他にもたくさんあるだろうが、ここではこれが最大のものだと仮定してみる。

しかし、SVというサービスは撮影自体が支障なくスムーズに行われることを前提として成り立っている。たとえば「撮影されるすべての場所の管理者から事前に承諾をとれ」というのでは、どうみても事務コスト的に引き合わないし、拒否する地域を丸ごと「不可」にしてしまっては利便性が大きく損なわれる。どこかでバランスをとることはできないものか。

という発想で、もしグーグル側が事前に撮影スケジュールやコースをすべて公開していたとしたらどうだろう、と考えてみたわけだ。正確な時刻までは難しいかもしれないが、たとえば「○月○日は○○市で想定されるルートはこれこれ」ぐらいならできるのではないか。せっかくグーグルマップがあるんだから、そこに示しておけばいい。SVの撮影は、カメラを装着した小型乗用車(プリウスとか)で行われるらしい(参考)から、あらかじめわかっていれば比較的容易に発見できるだろう。何なら七色に塗って「ストリートビュー撮影中」の大きな看板でも載せたらいい。

そうすれば、少なくとも隠し撮りではなくなる。撮られる側も比較的容易に対策がとれるだろうから、肖像権やプライバシーを主張する根拠はなくなりはしないにせよ、少しは弱くなるかもしれない。グーグルとしても、ほとんどコストをかけずに批判を多少だが減らせるというメリットがあるのではないか、と。

というあたりは実は前置きの言い訳。本題は、もしそうなったらどんなことがおきるだろう、という妄想。これはけっこう面白いのではないか、と。

真っ先に考えられるのが、反対運動。SVに反対する人なら、その車が通るスケジュールに合わせて「反対」だの「帰れ」だのといった垂れ幕を掲げたりするぐらいは当然やるだろう。「本気」で撮影妨害する気なら、撮影車の横を背の高いトラックで挟んだり目隠しを立てたバイクで伴走したりぐらいもやるかもしれない。もし行政レベルで本気なら、その当日に突然一帯で大規模な道路工事をやっちゃうという手もあるぞ。

個人レベルでも、その日はカーテンを閉めるとか外に出ないとか、家の前に臨時に目隠しを立てたりとかする人はいるだろう。もう少し気が利いた人なら、架空の風景を描くね。南仏の海岸地帯の絵とか風呂屋ふうに富士山とか。だまし絵みたいにする手もあるぞ。鏡を立てて撮影車と撮影者を撮影させちゃうなんて遊びをする人もいたりして。他にもいろいろ遊んだりできると思うんだな。なんだか急に面白くなってくるではないか。

そもそも、こういうものを嫌う人たちばかりではなかろう。一度やってみれば、今はよく見えないそのあたりも少しは見えてくるんじゃないか、と思ったりするのだな。

まずまちがいなく出てくるだろうと思うのが、撮影車に向かってピースサインを出す小中学生。自転車で伴走しようとする子もいるだろう。マラソン中継のノリだ。テレビ中継とちがって、SV車に撮影されれば、かなり長いことネット上に自分の顔を「残せる」。「仲間うちで威張れる度」は高いではないか。

となると、大人も黙ってはいないはず。SV撮影車に撮影されることによって、ネット上に無料で、許可もいらずに広告を出せるのだ。となれば話は早い。「創業百年の味 ○○まんじゅう」という立て看板、「街道一うまいラーメン屋こちら」みたいな矢印だって簡単。アルバイトを動員して、サンドイッチマンの要領で、看板を持って道端に立たせればいい。某ファストフードチェーンじゃないが、「行列のできる店」を演出してみてもいい。大通りに面していない企業でも、プライバシーを守りたい人の家の庭先を借りて大きな看板を出すことはできるだろう。

地域振興をはかりたい自治体なら、観光名所への案内を町中に設置してみてはどうか。「○○寺あと300m直進」とか。あらかじめSVで見ておけば、現地で道に迷いにくいかもしれない。いっそ「SV上で江戸時代の町並みを再現」なんてやってみても面白いのではないか。町おこしのために「世界一長いちくわ」みたいなものでギネスブックに申請しようとする人々が、その証拠写真にSVを使うことも考えられる。もうちょっと凝ったことがやりたいなら、町ぐるみでSVを使ったオリエンテーリング、なんてどうか。SV上でポイントを作っておいて、それを探していくのだ。ネットとリアルが連動する、まさに21世紀型の遊び。「電脳コイル」に、道順自体が暗号になってるというものがあったが、ああいうのができたら面白い。

自己実現の場にもなる。芸人の志望者が撮影車の前で、一発芸でポーズ、なんてのもありそう。たくさんの人が1枚ずつ絵を持って並んでリアルパラパラマンガ、なんてやっても面白いんじゃないか。インスタレーションとして、路上に作品を並べ、それをSV車に撮影してもらえば、世界中に公開できる。考えてみれば、撮られちゃった人たちが思わぬトラブルに巻き込まれたのも意識してなかったからで、もし最初からスケジュールがわかっていたら、ひょっとして、「SV撮影車の前でキスしたカップルは永遠に結ばれる」みたいな都市伝説に発展して、むしろ待ち望まれる存在になるかもしれない。

要するに、グーグルがSV車のスケジュールを公開すれば、それが前提になって、人々が行動を変える可能性があるのではないかということ。いってみれば「SVO」(Street View Optimization)というわけだ。グーグルとしては道路の日常の姿が撮影できないとご不満かもしれないが、それはしかたあるまい。ネットにSEOがあるように、道路にもSVOが出てくるのはむしろ自然だ。そのくらいは認めてやらないと。

もちろん「ここでも『グーグル様』のいいなりかよ」という不満を持つ人は当然残るだろう。こっちはネットの世界でなくリアルなだけに、影響はより大きいだろうし。

とはいえ、もし撮影スケジュールが公開されていれば、グーグルだけが特権的な立場にとどまることはできない。日本中のたくさんの人々が手に手にカメラを持って撮影コースに集まり、「たまたま」撮影車の通るそのタイミングで順次シャッターを切っていくことだって「起こりうる」のだ。休憩中の姿も、たまたま近くの公道上で写真を撮っている人のカメラに映って「しまう」かもしれない。それを皆がそれぞれ「自らの意思」で、グーグルマップないし別の地図サイト等にアップしていくかもしれない。グーグルが直接個別に抗議すれば、抗議を受けた人は、「プライバシーに配慮」して、顔にぼかしを入れてくれるだろう。

その考え方を押し進めていくと、似たようなことを、グーグル自体に対してやろうとする人が出てくるかもしれない。ちなみにだが、グーグルの日本法人は渋谷のセルリアンタワーにある。このビルの入口付近を外部の公道から撮影する分には、法に触れることもなかろう。たまたまビルに出入りするグーグル社員が映ってしまったとしても、風景の一部としてであれば肖像権の問題にはならない。グーグルがやっているのと基本的には同じことだ。それに、1人が長期間そればかりやってるのはどうかとも思うが、たくさんの人が1人1枚ずつ撮っているのであれば、そもそも問題にすらならない。仮にそれをすべての人が「たまたま」同じサイトにアップしていたとしてもだ。そういう情報をありがたがる人がどのくらいいるのかわからないが、それはSVも同じことだろう。


大きな地図で見る

情報が公開されることで、少なくとも一方的な関係ではなくなる可能性がある。人々の力が集まれば、個々人の力を超えて大きな力になる。それはネットの世界でグーグルが貢献してきたことそのものだ。そもそも「世界のすべての情報をオーガナイズし、それをアクセス可能にする」ことを目標とする会社ではないか。人々がグーグルに関する情報をオーガナイズし、アクセス可能にしようという活動について感謝こそすれ、文句をいうのは筋違いというものだろう。もし内心いやだとしても、SVがより社会に受け入れられるために、考えてみたらいいのではないかな。

いやもちろんネタだけどね。

※追記
悪ノリついでに動画も作ってみた。

作者: HYamaguti

更新日:2008年12月30日 1時30分

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NHK「日曜討論」に飯田泰之さんが出てる話

2008年12月28日朝9時からのNHK「日曜討論」は、ふだんとちがって若手論客の討論。他学部の同僚であるところの飯田泰之さんが奮闘中。ポジショントークではない、異なる考え方のぶつかり合いであるところが老人や政治家たちの話とちがって好感が持てる。某番組とちがって単なる罵りあいにはならず、ちゃんとかみあわせようとする努力がなされているのはこの番組ならではだが、それがいい方向に働いてる。正反対の考え方にも実は合意できる部分が少なからずあることがわかるという意味でも必見。

作者: HYamaguti

更新日:2008年12月28日 0時49分

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ゼミ生が準ミス駒澤になった話

小ネタ。2008年12月24日(テレビ的には23日の深夜というのだろうか)、フジテレビで「ミスキャンナイトフジ(仮)」という番組が放映された。見ていないので内容は知らないが、タイトルでピンとくる人は私と同世代の方だと思う。かつて(1983年〜91年)同局では「オールナイトフジ」という番組を放映していた。深夜のバラエティ番組で、出演者の大半が女子大生。それが趣向を変えて復活、ということらしい。「ミスキャン」は「ミスキャンパス」だろうから、そういう人たちを集めたのだろう。映画もアニメもリバイバル流行りだが、バラエティ番組も、ということなんだろうか。少なくともお笑い芸人をたくさん出演させるよりは安くつきそうな感じはするので、時節柄ということもあるかもしれない。

それはいいとして、びっくりしたのは、そこにゼミ生が出演していたらしい件。職業が一応大学教員なもので、いわゆるゼミというものがある(自分の名前がついたゼミがあるという事実はなんとも不思議な感覚なのだが、それはおいといて)。ゼミ生にもいろいろな人がいるのだが、出演した(らしい)のは、ちょっと前に開催された大学の「オータムフェスティバル」(大学祭のようなもの)の中のイベント「ミス&ミスター駒澤コンテスト」で準ミス駒澤に選ばれた学生。そのときさっそく便乗してゼミ公式ブログ「こち駒」にもインタビュー記事を載せたので興味のある方はご参照。

こち駒」のアクセスログを見ると、その記事が掲載されて以降、検索キーワードのトップ10をすべてその関連が占めるという異常な事態(ある意味「正常」なのかもしれんが)になっている。名前とかばんばん出ちゃってて大丈夫なのかという気もするが、当人はいたってあっけらかんとしている。「こち駒」のインタビュー記事には続編があるようで、そこには大学で撮影した写真も載るだろうが、実はその撮影はゼミ時間中に行った(なんせゼミ活動だからねっ)。横から様子を見ていたのだが、撮られっぷりが堂に入っていてびっくりしたのを覚えている。すでに某所では有名人らしいので、慣れてるんだろうな。

今回の「ミスキャンナイトフジ(仮)」、タイトルに(仮)がついているところからみて、まだレギュラー番組化するかどうかは決まっていないのだろう。反応を見て、というところか。「オールナイトフジ」は、社会現象とも称すべき女子大生ブームを巻き起こし、多くの女子大生タレントを生み出した。今回はどうだろうか。


作者: HYamaguti

更新日:2008年12月27日 16時15分

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なあんだ「裁判員候補に選ばれちゃったらどうしよう」なんて悩まなくていいんだ

手短に。裁判員制度のスタートとなる2009年5月が次第に迫ってきているわけだが、国民の間では、期待というよりむしろ、不満や不安が高まってきているようにみえる。ある人がこの制度について「裁判を早く終わらせて裁判官の仕事を軽減するために、国民を人質にとるしくみ」と評していたが、それが適切な評価かどうかはともかく、正直なところ、「なんでそんなことしなきゃいけないの」というあたりが平均的な評価ではなかろうか。 【ニコニコ動画】政府、裁判員が自ら刑を執行する制度の検討を開始先日いっせいに発送された裁判員候補者名簿記載通知書に対しても、辞退希望などを伝える調査票が、送られた数の約1/3も返送されてきたらしい。裁判員の辞退手続きを代行するという詐欺まで登場したとかで、そんなに皆さんやりたくないのかとむしろ面白く思ったりする。 実際に候補者通知が自分のところに来たかどうかは念のため公表しない(通知が来たことを公表するのは法的にまずいが、来ていないことを公表するのはいいのではないかと個人的には思う。ただ専門家じゃないから自信はないし、なんか言われたらいやなので一応、ね)のだが、個人的には、実はそれほど心配していない。 裁判員選任の流れをみると、通知が届いた後、裁判所に呼ばれて選任手続きが行われるのだが、呼ばれるのはくじで選ばれた人だけ。かつ、裁判所に呼ばれても、そこでいろいろ質問とかされて、そのうえで実際に裁判員になる人が選ばれるわけだから、候補者になったといっても、すぐに裁判員にさせられるわけではないし、候補者全員がなるわけでもないのだ。まあ、逆にいえば、数人を選ぶために数十人が巻き込まれるという意味ではた迷惑ではあるのだが。 候補者通知の段階で辞退できる条件というのはなかなか難しそうで、自分の場合あてはまるものがあるのかよくわからない。だから選任手続きの日に呼ばれてしまったら、一度は行かなければならないということになろう。 しかし、まだ選任手続きがある。裁判官が選任手続きでチェックするのは、「不公平な裁判をするおそれ」の有無だ。これまたあいまいな表現だが、それなりの基準というのはあるようだ。最高裁判所刑事規則制定諮問委員会なる委員会があって、その2007年5月23日の会合で議論されてる(議事録)のだが、当日の配布資料に、こんなのがある。 参考資料4「不公平な裁判をするおそれに関する質問の基本的考え方」 参考資料5「不公平な裁判をするおそれに関する質問の具体的イメージ」 参考資料4のほうでは、「不公平な裁判をするおそれ」がどんな場合かについて、「①当事者と特別の関係にある,②訴訟手続外ですでに事件につき一定の判断を形成している,③法律に従った判断をすることが困難である場合が該当すると考えられる」としている。「特別の関係」はいわゆる親族であるとか直接の利害関係があるとかいうことなので、これは難しいが、「すでに一定の判断を形成」と「法律に従った判断をすることが困難」については、けっこう範囲が広そう。もちろん虚偽の回答をすると罰せられるのだが、本当にそうなら胸を張って答えればいい。 裁判官が具体的にどのようにこれを確かめていくかについては、資料5にある。たとえばこんな質問をするらしい。 今回の事件のことを報道などを通じて知っていますか。 ① 知らない。 ② ある程度知っている。 ③ 詳しく知っている。 報道等ですでに予見をもっているかどうかを聞く質問らしい。で、 第1の3で③と回答した場合→「報道などに左右されることなく,法廷で見たり聞いたりした証拠だけに基づいて判断できますか。」と質問し,その回答によって不公平な裁判をするおそれの有無を判断する(なお,状況に応じ,適宜「どの程度知っているか」,「この事件についてどのように考えているか」,といった質問を交えることも考えられる。)。 のだそうだ。つまり、非常に詳しく、かつ偏った意見を「たまたま」すでに形成してしまった人というのは、裁判官としては選びにくかろう、と思うのだな。 このほか、「事件類型に応じて追加する質問」というのもあるらしい。たとえば、警察官等の捜査官証人が予定されている事件。警察官を信用していない人が裁判員になったりすると、不公平な裁判をするおそれがあるというわけで、それをチェックするのだそうだ。具体的には、当事者の求めがある場合、 「あなたには,警察等の捜査は特に信用できると思うような事情,あるいは逆に,特に信用できないと思うような事情がありますか。」 なんてことを聞くらしい。警察官のいうことなど信用できるか!というタイプの人は、裁判官としても比較的選びにくいのではないかと想像する。あと、死刑の適用が問題となる事件。 「起訴されている○○罪」について法律は,『死刑又は無期若しくは○年以上の懲役に処する』と定めています。今回の事件で有罪とされた場合は,この法律で定まっている刑を前提に量刑を判断できますか。」 なんて聞くらしい。で、もし異論が出た場合にはさらに、 「今回の事件の裁判で,証拠によってどのような事実が明らかになったとしても,評議においては,絶対に死刑を選択しないと決めていますか。」 などと聞くのだそうだ。死刑についての考え方も完全に本人の信念の問題だからねぇ。裁判所の意に沿わない信念の持ち主を裁判員に選ぶのは、裁判官としてもやりづらいだろうからねぇ。 念のためくりかえしとくが、これは「こう答えれば裁判員にならなくてすむ」といっているのではない。第一、虚偽の回答をすると罰則があるからね。ただ、もし本当にそういう信念を持っているのであれば、逆にその信念を曲げて裁判官の意に沿うような回答をするのも違法なわけで、そういうことはしちゃいけないよねぇ。そういう場合なら、結果として裁判員に選ばれる確率は比較的低くなるだろうねぇ、などと個人的に思っているだけだ。 とりあえず今は、実際の現場でどんなことが起きるのか、「興味深く」見守っているところ。戦前の日本で行われていた陪審制は、15年ほどで停止された。はてさて。

作者: HYamaguti

更新日:2008年12月26日 17時51分

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「テッパン男」になりたければ「テッパン男」など読むな

檀れみ著「テッパン男」、ヴィレッジブックス新書、2008年。

以前、「美人トレーダー」という肩書きがあると聞いてびっくりしたことがあるが、帯によると、この本の著者は「美人エッセイスト」という肩書きであるらしい。写真がついてるので、その「真偽」のほどをどーしても知りたいという願望をお持ちの方は、書店の店頭にて直接お確かめいただきたい。ついでに立ち読みしちゃえば、読むのが遅い人でも30分、早い人なら2~3分で内容はほぼつかめる。

この本のタイトルである「テッパン男」(どうでもいいけど、なんとも品のないことばだねこれ。この記事では半ばヤケになっていっぱい使ってみたけど)について、特段の定義はなされていないが、要するにまちがいなく女性にモテる男、ぐらいの意味らしい。著者は「たかが女の五、六十人も惹きつけることもできずに、筋金入りのオヤジのハートはつかめませんよ」という訳のわからない理由をもってこの本を「ビジネス書としての側面が濃厚」と言い切ってて、それを「保証」するんだそうだが、ビジネス書ってものを読んだことあるんだろうかこの人。

帯に「男達よ。どーしてそこ、ハズすかな!ハッキリ言ってスパルタです。」とある。なんかこわいね。でも、この品のない書名から想像のつくとおりの内容(その意味では、きわめて適切な書名だと思う)なので、特にふれるべきものはない。まあそういうのも不親切なので、第1章の「基本姿勢5箇条~モテ道をテッパン化する」の節見出しだけ挙げとくとこう。
1 時代を見抜く
2 客観視する
3 寒い男を阻止する(客観視パート2)
4 キャラ設定~われわれは皆、サービス業だと心得る~
5 空前のケチ精神を身につけるな!

これで充分だろう。内容はこの見出しから想像がつく(咀嚼する必要も行間を読む必要もない)ので想像で補っていただければまあだいたいはずしてない。この手の本は昔から定期的に出てくるような気がするが、そっちでもたぶん「目的」は達する。

私自身はここでいう「テッパン男」でないことにかけて絶対の自信がある(せいぜい「ちり紙」がいいとこだ)が、「テッパン男」になりたい男性の皆様に対しては、「テッパン」でいえるアドバイスが1つある。

「テッパン男」になりたければ、「テッパン男」など読むな。

容易に想像がつくと思うが、誰が見ても「テッパン男」と思われるような男性がいたとしたら、その人はおそらく、「テッパン男」など読んでいない。たぶん「テッパン男」なんてことばも知らないだろうし、知っていたとしても「テッパン男」になろうなどとは夢にも思わないだろう。そんなことに関わっている暇があったら別のことをしたいと思うだろうし、実際にしてるはずだ。だから、もし「テッパン男」になりたいなら、万が一読んでしまったとしても、その事実は墓場まで持っていくべきだね。私はこの記事を書くためとはいえ、すでにこの本を読み、かつブログに書いたりしてしまったので、もはや一縷の望みすらないわけだが(別にいいけどさ)。

※あらかじめ追記その1。
いや、ちがうかもしれない。「テッパン男」を読んでなお「テッパン男」でいられるような男こそ、真の「テッパン男」ではなかろうか。うーん道は細く険しいが、一縷の望みは・・ないなやっぱり。

女性の方にもぜひ問いたい。そもそも、「テッパン男」をありがたがって読むような男を「テッパン」と思うのか?「冴えてる」のか?「ピンとくる」のか?少なくとも多くの男性にはそう見えないだろうと思う。男性に「テッパン」と思われない男は「テッパン」でありうるのかね?

おそらく、女性がこの本に書いてあるようなことを公言しても、「テッパン男」は異を唱えたりしないだろうが、それはもちろん、その女性への配慮もしくは下心だ。内心ドン引きしてるであろうことは請合ってもいい。好みでない男性の撃退法としては有効かもしれないが、「テッパン男」とどうかなりたいなら、やめといた方が無難じゃないかな。

とはいえ、この記事の最初には一応アフィリエイトのリンクなどおいてあったりもする。「読むな」とは書いたが「買うな」とは書いてないからね。・・屁理屈はともかく、そういうわけなので、誰にでもお勧めというわけではない。「テッパン男」には何の憧れもないが話のタネに読んどきたい男性(実際のところ、「お姉さん」のいる飲み屋で話のネタにするにはいいのではないかな)の方と著者に気に入られたい男性の方、それから、何を言ったら「テッパン」で「テッパン男」に嫌われるか知りたい女性の方にお勧め、ということでひとつ。

※あらかじめ追記その2。
どこかに「テッパン女」というタイトルで本を書こうなんて考える「勇気」のある男性はいるだろうか。「女達よ。どーしてそこ、ハズすかな!ハッキリ言ってスパルタです。」なんてね。「ホスト出身のイケメンエッセイスト」なら許されるのかな。私はやだね。

作者: HYamaguti

更新日:2008年12月26日 3時44分

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Christmas Songs

手短に。以下に貼ったYouTube動画は、いずれも説明の必要もないほど有名なものばかり。まあ季節柄というわけだが、ただ能天気におめでたいだけじゃなくて、なんだかいろいろとほろ苦いあたりも共通している。

最近友人に教えられて気に入っているマンガが「聖☆おにいさん」。売れてるらしいので解説は省略するが、その第1巻の中で、ブログに凝っているイエスを見たブッダが、「神様がここまで暇ならこの星は平和なんだなぁ・・・」と心の中でつぶやくシーンがある。その部分に限らず、このマンガの魅力であるなんとものんびりした雰囲気は、「この星」の中でも日本、とりわけ東京という街ならではのものなのではないかと思う。

「聖☆おにいさん」に異議を唱えるつもりはまったくない(むしろ気に入っているというのは上記のとおり)のだが、もし実際にイエスやブッダのような「聖人」たちがこのマンガに出てくるような力と役割を持っていたとしたら、あのように「暇」を満喫することは許されまい。毎年この日、米NORADが、ひと晩のうちに全世界の子どもたちにプレゼントを届けて回る(1 軒あたり 0.0002~0.0003 秒の速さで各家庭を回る計算になるらしい)サンタクロースの「追跡」を行うのは有名だが、まさにそのような感じで世界中の人々を救って回っているはずだ。

残念ながら、現実にはそうした「聖人」たちは存在しない。したがって私たちは、世界中で繰り広げられている救いのない「現実」に対し、自分たちの力だけで立ち向かわかなければならない。聖人たちがバカンスの場所に選ぶほど「平和」な土地に住み、小事にあくせくする私たちだが、せめてこれらの動画を見る間くらいは、およそ似ても似つかない状況におかれた人々の気持ちに思いをはせるようなことがあってもいいのではないかと思う。


作者: HYamaguti

更新日:2008年12月24日 20時53分

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「英語を英語で学ぶ」必要はあるのか

2008年12月22日、文部科学省が高校の新しい学習指導要領の案を公表したそうだ(関連記事としてこれとかこれとかこれとか)。いろいろポイントはあるんだろうが、なんだか「英語を英語で教える」という点が特に注目を集めている。主な関心は「教師の負担」であるらしい。ふうんと思うのだが、なんだか釈然としない。

そもそもなんで英語を英語で教えるべきと考えるのか?朝日の記事にこんなくだりがある。

文科省が強い方針に踏み出したのは、和訳や作文偏重だった英語教育への反省がある。経団連が00年に出した意見書「グローバル化時代の人材育成について」で「小中高で英会話を重視」「生きた英語に」と財界の要望をうたったことも底流にある。

つまり今までの英語教育は「使えない英語」を教えてきた、というわけだ(経団連の意見書「グローバル化時代の人材育成について」は「英語力の不足」が懸念であり「実用的な英語力の強化」が必要としている)。確かに、何年も英語を習ってきたのにほとんどしゃべれないという人は多い。同じ記事では、全国英語教育研究団体連合会(全英連)の会長でもある都立国際高校塩崎勉校長の「英語で授業をしたら生徒が分からなくなると言う人がいるが、それは違う。言葉は使うもので、多用すれば生徒の意識も変わる」との見解を引用している。

いいたいことはわかる。時事通信の記事にある、上智大外国語学部長の吉田研作教授の「日本人の英語力はあまりに低い」との指摘は、少なくとも、今日本がおかれている状況からみてあってほしい水準、みたいなものを考えれば、そうまちがってはいないと思う。実際、少なからぬ日本の会社の多くの職場では、電話口で「Hello.」と聞こえた瞬間、パニックに近い状況が発生するわけだが、それでは困ることも多かろう。

とはいえ気になるのは、そういう問題意識があるのはいいとして、その解決法が「英語での英語教育」なのかという点だ。英語を教えるのは英語でやるのがいいのなら、古文を教えるのは古語でやったらいいんじゃないか(それはそれで面白そうだが)というのは、上に貼った動画でおちょくってるところでもあるが、教えるのにどの言語を使うかでどうこうやってるのはどうなんだろう。英語でも日本語でも、要するに目的と生徒の水準に合わせて最も適した言語を使って(必要なら当然、両方を組み合わせるべきだろう)教えればいいのであって、どちらが正しいかを論ずること自体不毛ではなかろうか。

「英語で教えるべき」論の中には、「よりたくさんの英語に触れるように」という要素があるように思うが、これは本来、英語「で」教えるかどうかとはあまり関係がなくて、むしろ英語の授業時間の問題ではないか。時間が足りないなら増やす、というのが本来のスジだろう。そもそも、授業を英語で行えば充分なのか。生徒といったっていろいろだ。英語で授業されることによって、かえって理解度が下がる場合だってあろう。

もう1つ問題はある。記事は「教師の負担」というが、「負担」というのはまあ一種の婉曲表現で、本来「能力」とすべきところだろう。「生徒がついてこれるか不安」という指摘もあるが、それも「教師の不安」とみたほうがよさそう。要するに、少なくとも「一部」の英語教師は、英語を教えることはできても英語で教えることはできないのではないか、という不安を抱えているのだと思う。

ここまできて、釈然としない原因がだんだんわかってくる。皆が皆そこまでしなきゃいけないのか?という点だ。日本では高校進学率が90%を超えるらしい。つまりほとんど全員ってことだ。そんなに皆「生きた英語」が必要か?だってほとんどの人は日常的に英語を使う環境にいないじゃん。考えてみてほしい。多くの人は、学校を卒業して社会人になると英語力が低下する。なぜか?使わないからだ。仕事で英語に接する人は、当然ながら低下しないか、むしろ向上することが多いだろう。なぜか?使うからだ。で、ポイントは、今の日本の企業社会の中で、日常的に英語に接する必要に迫られる人は比較的少数派でしかない、という事実だ。

もちろん、教育のための資源が充分にあるなら、好きなだけ使えばいい。でも授業時間も教師の能力も、もっといえば生徒の意欲も、おそらく「日本人全員が『生きた英語』を話せるように、英語を英語で学ぶ」ところまでもっていくには充分ではないのだろう。ならば、学習指導要領ですべての高校、すべての高校教師、すべての高校生を縛ってしまうのはちょっと乱暴ではないか。むしろ、意欲と能力を持った生徒が充分な環境下で学べる状況を用意することに注力したほうがよほどいいのではないか。

財界の皆さん、そんなに「生きた英語」を使える人材が欲しければ、よそに要求する前に、やれることがある。入社試験を英語でやったらいいのだ(実際、経団連意見書にはそれに近いくだりがある)。受験競争の終着点が「就職」であることに議論の余地はなかろう。英語ができなければいい会社へ就職できないというのであれば、そういう企業に就職したい学生を集めたい大学の教育はがらっと変わる。そうなれば当然大学入試も変わり、引っ張られて高校の教育内容も変わるだろう。そもそも「生きた英語」が仕事で必要なんだろうから、入社試験に英語を加えないほうがおかしいのだ。試験といったって、特別な準備はいらない。面接を英語で行えばいいし(社員は皆仕事で英語を使ってるんだよね?)、必要ならTOEICでもTOEFLでも使えばいい。簡単なことではないか。

いうまでもなく学習指導要領は、日本のすべての高校生が対象だ。それを変えよというのであれば、財界の人たちは、「すべての日本企業」が、「全社員」レベルで「生きた英語」を使える能力を必要としているというのだろう。仕事で必要なんだろうから、日常的に英語を使う環境を社内に作り出すのも当然。入社試験だけでなく、社内の会議も文書も英語。昇進試験も英語。役員会も英語でやるといい。日本で事業をしている以上、もちろん日本語だって使えなければいけない。どこの国籍の人であろうが、役職員全員が英語と日本語の両方を使えてしかるべきだろう。英語と日本語を同格の公用語にしたらいい。意見書の趣旨からみて別に何の異論もなかろうと思うがどうか。

多くの役職員はふだんの仕事で英語を必要としない?それなら、全高校生に「英語で授業」を求めるのはそもそもお門違いだし、はた迷惑なことこの上ない。学校教育に口を出す前に、自社の社員(役員も、ね)が業務を遂行するうえで実際のところどの程度英語を必要としているかどうか確認していただきたい。そもそもそうした要望は、実際にすべての社員に「生きた英語」が必要となるまで、控えておくべきだ。いっちゃなんだが、顔を洗って出直してくるがよかろう。

※追記
蛇足だが、英語の学習指導要領を検討する議論も英語で行ってはどうかな?学習指導要領自体も英語で書けばいいではないか。もちろん官僚の皆さんは「生きた英語」など朝飯前だろうが。

作者: HYamaguti

更新日:2008年12月23日 20時26分

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