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トップ > FX 協調介入 > FX 協調介入 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2009年1月7日 6時)
このブログの運営方針と、今後書きたいこと
このブログの説明。
運営方針
このブログというかダイアリーは、私の妄想の保管庫、私の脳の外部拡張メモリーです。ここに書いておけば忘れないし、検索も容易、どこにいてもアクセスできます。基本的に政治的な意図は一切ありません。
それをわざわざ公開していることの理由は、他者からのフィードバックを受け、場合によっては思考が洗練されたり、まったく気付かなかった視点を気付かされることなどを期待しています。そして、そのためには読者の皆様が何とか読むに耐える程度のエンターテイメント性は必要であると考えます。このブログでの他者への言及や批判、煽りなどは基本的にその意図です。
今後書きたいこと
以下箇条書きですが思いついたら書き足して、書いたら書いたと書くことにします。書く気が失せたら打ち消し線で。
- 無限にあるということとまったくないということの類似性
- メイド・イン・ヘブンについての考察
- 価値観が生む秩序の必然性 ⇒書いた
⇒さらに書いた
役職と人材の関係- 「ホームレス」という社会的ポジション(2008-09-14 - ブログ漂流に関連して) ⇒ちょっと書いた
- 価値観の無限性とインターネットの功罪
- 脳みそブラウザという可能性 ⇒書いた
- インターネットが実現する価値観の細分化(梅田望夫の書評として)
- 資本主義の構造と近代的な個(資本主義という奇蹟 - 池田信夫 blogに関連して)
- 日本社会におけるセイの法則の崩壊と反セイの法則(森嶋通夫の書評として)
- [価値観][恋愛]
価値観の崩壊の序章としての非モテ問題 - [会社]資本主義社会における企業の意味
- [会社]
大企業と中小企業の分業構造の違い(雨降ってじじいがたまる - よそ行きの妄想のつづきとして) - [会社]企業という社会の構造問題
- [経済][会社]金融業界の栄枯盛衰 ⇒書いた
- [経済][社会][ビジネス]価値創造型企業から価値観創造型企業へ
- [ヒト]
相手の気持ちになってみろということの無意味さ - [会社][価値観]M&Aと帝国主義の類似性(はてなブックマーク - 高齢化社会における企業組織についての必然性 - よそ行きの妄想のやり取りを踏まえて) ⇒ちょっと書いた
⇒書いた
- [会社][ヒト]ベネフィット、バリュー、プロフィット
- [秩序]自然と人間の境界(自然界の厳しい掟です/GSV/ホームレス - 過ぎ去ろうとしない過去への呼応として) ⇒書いた
⇒こっちにも書いた
- [価値観][恋愛]無自覚な恋愛主義ファシストに見る社会秩序(恋人をつくるために大切なたった1つのこと - iGirlに関連して)
- [価値観]世の中に蔓延する「潔癖さ」の系譜について ⇒書いた
- [生活][組織]家庭内の分業と快楽のアウトソース
- [金融]はてなのみんなには日本株をオススメしたい理由(はてなーにもわかる金融業界の栄枯盛衰※追記あり - よそ行きの妄想に関連して) ⇒書いた
- [会社]単なる営業会社はもう世の中に必要ない
- [価値観]道徳的な潔癖さが蔓延するとバカがどんどん不幸になっていくということ ⇒書いた
- 日本経済の回復に向けた需要創造の方法論について(08/12/16追記)⇒書いた
- 格差問題について(08/12/16追記)
- 「ニセ科学」批判と大衆化(08/12/16追記)
- 呪術と科学的なものの境界線(08/12/16追記)
- 「先送り」の価値(08/12/16追記)
- <老人>について(08/12/16追記)
- ブクマ数シミュレーションモデル(08/12/16追記)
作者:chnpk
更新日:2008年9月4日 13時30分
[ヒト]「会話の通じない人」は最強か
ついさきほどふと目にとまった『今も昔も会話の成立しない人最強』*1というブクマコメントについて。
私は金融業会で、M&Aなんかの仕事を中心に取り扱っている。弱小証券ではあるが。「会話が通じない人」に出会うケースは多い。
通常、M&Aを進めるにあたっては、経済合理性や法知識などに則ったコミュニケーションをこころがけるのだが、相手によっては政治的なコミュニケーションや道徳的なコミュニケーション以外はまったく理解しようとしない人がいる。
非常に単純かつわかりやすい例で言うと、「会社は誰のものか」。法的に考えれば会社の財産は最終的には株主に帰属するから、会社は株主のものだと言っていいのだろうが、世の中には会社は従業員のものだとか、お客様のためにあるのだ、と言ってはばからない人は後を絶たない。これは、コミュニケーションの基盤が異なるということだ。
M&Aの話ですよ、と前提をおけば、大概の人はいくら自分にとってなじみがあるのが道徳的コミュニケーションであっても、それは一旦忘れて、無理をしてでも経済合理性や法的なコミュニケーションにあわせてくるものだが、それをまったくしない人というのも結構いる。
あるときは、こちらがいくら、取締役会としても株主の手前極端に非合理的な意思決定はできないという説明をしても、信義を通せの一点張りで迫ってくる。またあるときは、こちらがどれだけ、定量的なリスクを説明しきっても、不安感情を優先する以外の判断基準をもてない。
これが、はてな村での議論(笑)であれば、お互いに「あいつは話の通じないバカだ」ということにして、あとは妖怪どっちもどっちの登場を待つだけということになるが、ビジネスではそうもいかない。話をどこかにまとめなくてはならないからだ。いくらかの妥協をしてもなお、まとまったほうがまとまらないよりも経済的なメリットが大きいからだ。
そういった局面において、上にあげたような「会話が通じない人」は果たして再強か。
確かに、会話が通じないだけあって、こちらの要望を通すのは確かに難しい。何を言っても同じ答えが返ってくるわけだ。さらに、そういう人に限って無駄に声が大きいので、段々精神的にへこたれてくるのも確かだ。どうでもいい問題であれば、じゃあそれでいいですよもう、と言ってしまいたくもなる。いわゆるゴネ得というやつだ。
ただ、何かしら落としどころを設けて、話をまとめなくてはならないような重要な話の場合、彼らが有利だったという記憶はまったくない。相手が「会話が通じない人」であれば、落としどころはどちらかといえばこちら側にくるのが、経験上通例だ。
仕掛けは単純で、相手はこちらの言っていることがわからないのに、こちらは相手の言っていることはわかるから、朝三暮四的に落としどころを適当に用意して、そこに引っ掛ければいいわけだ。
であるから私の認識では、コミュニケーションの基盤を多く持っている人こそ強い(落としどころを自分側に持ってこれる)ということになる。
「会話が通じない人」が最強なのは、それこそはてな村の議論(笑)のような、勝ち負けという二元論的などうでもいい枠の中だけだと思う。
交渉ごとについては、『子育てに見る交渉のかんどころ - よそ行きの妄想』も、
M&Aとかの話は、『日本の需要不足を解消し、経済を回復させる<帝国主義> - よそ行きの妄想』もよろしく。
作者:chnpk
更新日:2009年1月7日 17時0分
[雑談]派遣村の話でよくわからないこと
正月に実家でテレビを見ながら、どうせはてなでは盛り上がるだろうななどと思って眺めていた話題、それが派遣村。
派遣村のマクロとミクロ
派遣村とはなんぞやという問いについては、以下の引用部分を参照されたい。
「派遣切り」などで仕事と住まいを失った人を対象にした東京・日比谷公園の「年越し派遣村」に、労働者が続々と詰めかけてパンク状態となり、近くにある厚生労働省は2日、要請に応じて省内の講堂の緊急開放に踏み切った。約250人が講堂に移った。
労働組合や市民団体などでつくる実行委員会の想定の倍近い約300人が集まり、用意したテントが足りなくなったため。昨年末から急激に切迫した雇用問題は、中央官庁が職を失った人を庁舎に迎え入れる異例の事態になった。
asahi.com(朝日新聞社):年越し派遣村へ続々、300人突破 厚労省が講堂を開放 - 社会
あまりにもありがちな話題だ。不景気で雇用が減少し、失業者が増えれば、こういう騒ぎが起こるのは必然といえる。そしてこうした騒ぎにかこつけてサヨクがこれ見よがしに思想信条をアピールするところまで完全な予定調和といえる。
私は今更ウヨクさんやサヨクさんによる綱引き劇場に参加する意欲はまったくないので、この話題についてはきっちりスルーするつもりが、下の人物の下の発言のせいで、ついうっかりエントリーをあげてしまった。
坂本哲志総務政務官は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、仕事と住まいを失った派遣労働者らを支援するために東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」に触れ、「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。
派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 - 毎日jp(毎日新聞)
何故この発言が気になったかと言えば、うちの父親がまったく同じような発言をしたのだ。テレビを見ながら。「こいつらほんとに働く気あんのか」と。「内容にこだわらなければ仕事がないはずない」とも。
よくわからないのは、何故急にミクロなレベルの真偽が問題になるのだろうということだ。景気が悪化→雇用が減少→対策が必要→マスメディアでもアピールまではマクロの問題だったはずだ。雇用が減少までが真であれば、必ず失業者は増えている。雇用の絶対数が減っているのだから、新しい仕事に就けない人も必ず存在するはずだ。にもかかわらず、テレビでインタビューを受けているその人や、その場に集まった他の個人の意思や状況を突然問題視する思考回路はいったいどういうことなのか。しかもそういう考え方をする人がいっぱいいそうな気がしたのだ*1。
不快感の仮説
最初に言っておくが、大して確からしい仮説は出てこない。
この件を考えていて、まず思い出したのは「ニセ科学」の話だ。ここで「ニセ科学」とは、『科学ではないのに科学を装っているもの。つまり「科学ではない」と「科学を装っている」の両方を満たすもの』*2のことらしい。そしてこれを批判するニセ科学批判者の動機は、『人それぞれ』*3らしいのだが、代表的なものに、ニセ科学は科学の権威を利用した詐欺的な行為であり、偽札が罰せられることと同様、許されるものではあり得ない、という義憤がある。
この理路は、派遣村批判者にも適応することが可能だ。即ち、派遣村の人による政治的宣伝行為は、失業者の悲惨さを利用した詐欺的な行為だという義憤である。ニセモノが跋扈するとホンモノの価値が下がる、この場合、本当に凄惨な生活をしている失業者に救いの手や衆目が行き渡らなくなるとでも言おうか。あるいはこうも言えるかもしれない。ニセ科学が不当な権威付けによって購入者に経済的な損失をもたらすように、ありもしない社会問題を捏造して政府に対策を迫ると社会的に無駄なコストが発生する可能性がある、とか。
ただどうもこの手の動機というのは、後付けの気がする。普通に考えて、多数の人にとって、ニセ科学に騙される被害者や、本当に凄惨な生活をしている失業者は、見知らぬ他人である。その見知らぬ他人の、存在するかどうかも分からない被害について、【確かに明日は我が身とはいうけれども、】*4そんなに我を忘れるほどに怒りの感情を持てるものなのか。
上で引用した坂本哲志総務政務官の発言は明らかに配慮を欠いている。「本当にまじめに働こうとしている人」かどうかという、立証が困難なことが明らかな基準を持ち出して、"マクロ的に考えれば存在すること自体は明確なカテゴリー"を批判したのだ。そんなことをしたら立場が悪くなることは私でもわかる。政治の世界で生きる人物がそんなことに考えが及ばないということがあるのだろうか。考えられるのは、あまりにも不快だったために我を忘れてしまった可能性だろう。
社会的な損失を減じ、または未然に防ぎたいのであれば、坂本哲志総務政務官は、雇用が減少していないことや、働く気さえあれば仕事はいくらでもあること、失業者への対策に際しては、生活保護よろしく本当に働く気があるのかどうかの厳密な審査を行うべきとする旨の主張などを淡々と説明すべきだった。姑の小言さながらに主観的な難癖をつけてみたところで、事態が変わるわけでもないし、誰を説得することもできない。
単純にサヨク的イデオロギーが嫌いという可能性もある。ちなみに私は嫌いだ。以前にここのブログで『ただのサヨクとただのウヨクと - よそ行きの妄想』として書いたのだが、要はサヨク的思想は現状を批判させれば素晴らしい成果をあげるが、理想に固執するあまり、なんの実現可能性ももたらさないからだ。それでは時間の無駄なのだ。だから嫌いだ。ところが、本件に限って言えば、派遣村の人は政治的宣伝というかたちで、さもありそうな失業者対策という問題を具体化させ周知するという行為をとっている。それ自体に何の問題もない。むしろ失業者対策を充実させたいと思えば、政治的活動は不可避だろう。そういう意味で、私は本件の活動家諸氏というか、派遣村の人たちが実はサヨクだろうが何だろうが一向に構わない。
今回の件で、サヨク批判をするというのは、それは自分がウヨクだからじゃないのか。それならそれで当然結構なのだが、ウヨクとサヨクの綱引きがいつまでたっても決着がつかないのはいまや自明である。そういう趣味の領域の話は出来るだけ人目につかないところで、どうかひっそりとやって欲しい。社会を発展させるような議論にはつながりようがないからだ。
バカバカしい話だが、「甘ったれたことを言うな」という趣旨であれば、わからなくもない。誰だって、甘えられるものなら甘えたいはずだ。そこをなんとか堪えて自分は頑張っている。お前だけ甘やかしてもらおうなんてズルイという考え方は、なかなか原始的で単純なだけに説得力がある。
しかしそれはあまりにもバカバカしい。大の大人が言うセリフではない。木を見て森を見ないにもほどがある。いち個人がズルイかズルくないかの判断はとりあえず置いておいて、社会的に雇用不足という問題が本当にあるのかどうか、どういった対策が必要かどうかを考えてもいいんじゃないか。
■追記(1/7)
案の定と言うべきか、上の件、池田先生がきっちり炎上させていた。
曰く、『完全失業者は250万人もいるのに、なぜ日比谷公園に集まった500人だけを特別扱いするのか。』*5とのことなのだが、派遣村の人たちの主張はそんなにミクロなものだったのか?だとしたら上の私の疑問はすんなり解決してしまう。ミクロの主張を検証するにはミクロのレベルの真偽が重要だからだ。私はてっきり「250万人の完全失業者」全体に対して、手厚い保護をすべきだという政治的主張がメインだと思っていたが。
そもそも、池田先生自体、『完全失業者は250万人もいるのに、なぜ日比谷公園に集まった500人だけを特別扱いするのか』(ミクロな目的だ)と煽る一方で、『もちろん「政治活動を主目的に活動している」ことは明らかだ』(マクロな目的だ)と言う。いや、それ、ムジュンしてるだろ!
■追記
全然関係ないけどどうかこちらも見て行ってください。どちらかと言うと反応が欲しいと思いながら書いた記事にむしろ反応が少なく、がっかりしています。
*1:と、思ってたらやっぱりいっぱいいた⇒『痛いニュース(ノ∀`):【派遣村】 「集まったのは、本当に働こうとしている人か疑問」「学生紛争のときの戦術が垣間見える気がした」…坂本政務官』
*2:『ニセ科学批判まとめ %作成中 - ニセ科学の定義』より引用。
*3:『ニセ科学批判まとめ %作成中 - 何故ニセ科学を批判するのか』より引用。
*4:【】内は追記。
*5:『「派遣村」の偽善 - 池田信夫 blog』より引用。
作者:chnpk
更新日:2009年1月6日 11時16分
[雑談]正しい読解なんてなくていい
『それを個性とはよばない - 北烏山だより』を読んで、軽い違和感を覚えたので。
本件エントリーを要すると、
中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。
「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」
そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。
という問題提起からはじまり、
「みんなちがって、みんないい。」
まったくそのとおりで、そのことじたい、異論はない。
けれどもそれは、文学なら文学の、社会生活なら社会生活の、一定の「お約束」をクリアしたうえでの話だ。
と繋げ、
「お約束」の部分を押さえずして、何が「教育」だ。
自らの思想や道徳観を押し付けることとの違いをふまえずして、何が「教育者」だ。
としている。
この「お約束」というのは、あくまで国語なら国語という学問の世界の中だけの話ではないのだろうか。そして「学問の世界のお約束」は個性の是非とは全然別の話ではないのか。
確かに、この先生に相談したという保護者も『先生の読みとはちがっていて』という先生個人を槍玉に挙げるような発言をしていることから大いなる勘違いを感じるものの、それに対する反応としてでさえ、読解の正誤という「学問の世界のお約束」を個性を発揮することの前提に置くのは随分見当違いな気がする。
例えば、「うちの子の個性は学問のルールに順応できない可能性を感じる。学問に疎いだけで将来を棒に振るようなことは避けたいのだがどうしたらよいか。」という相談があったとする。これに対しても、「それは個性とはよばないのです」と言うのだろうか。こういう場合はむしろ、人それぞれ個性があるのだから、得意な分野を伸ばせばよいなどと言うべきではないか。
エントリー主は上述の通り「みんなちがって、みんないい。」世界を肯定しているが、その世界は「お約束」をクリアしたうえでのものだと言う。果たしてそうだろうか。「みんなちがって、みんないい。」世界と「お約束」の世界は延長線上ではなくて並立であるべきではないのか。極端な話、知的障害などを患っていて「お約束」をクリアできない人は「みんなちがって、みんないい。」世界には到達できないのだろうか。だとしたらどうなってしまうの。「とにかにダメ。」みたいな世界に行くのか。
要するに、私が感じた違和感は、この2つの世界を重構造のようにして論じることで、学問的な「お約束」を過剰に一般化しようとしているのではないかということだ。エントリー主にそういった意図はおそらくないとは思うのだが、このテクストを純粋に眺める限りにおいては、そういった傾向を少なからず感じてしまう。
思うに、学問とはそもそもが没個性的な価値基準を「学ぶ」ことに他ならない。みんながみんな好き勝手な基準や定義を持ち合ってやいのやいのと、それこそはてなのアルファブロガー(笑)のようにキャッフキャッフしてたら、まともなコミュニケーションにならないから、ある程度のコンセンサスを基準として設けて、それを共有するというのは合理的だ。このコンセンサスの合理性を追求し、導かれた合理的な命題からさらに新しい合理的な命題を導くようにコンセンサスを拡大させ、そしてそれらを周知することが学問だと認識している。
ただ、ではそれらの合理的命題を、合理的だからといって押し付け、盲目的に信じることを強要することまでもが合理的であるとはとても思えない。世の中はまったく不確実で、絶対的なものなどなにもない。その中にあって合理という尺度を持つことはまあいいことなのだろうが、それを伝える方法として、合理的な内容に絶対性を持たせるような態度は、それ自体が合理的ではない。教育の合理性については、疑う余地が十分にあるのじゃないだろうか。
作者:chnpk
更新日:2008年12月30日 11時50分
[ヒト]母性本能という道徳
『おまえら子供殺す母親の気持ちって少しでもわかる?:アルファルファモザイク』を読んで。
いや、昔まったく同じ疑問を持ったことがある。
子供を殺す行為は、動物にはよく(かどうかは知らんけど)見られるものだと当時聞いた。
言われてみれば確かにそれが合理的な判断となり得る局面は確かに想像できて、例えば、育てられる子供は1匹だという縛りがある動物があったとする。いまあるメスには既に子供が1匹いるという状況で、偶然すごく優秀な遺伝子を有するオスの子を産めそうな機会を得たというような局面。こういった局面においては、既存の子供を殺して(または捨てて)でも、優秀なオスの子供を産むことが、そのメスが自身の遺伝子を後世に残すうえでの最適解だろう。
たぶん母性本能というのは、本能という単語をくっつけることであくまで自然なもののようにされているが、おそらくただの道徳なのだろう。と思った。
作者:chnpk
更新日:2008年12月30日 10時58分
[雑談]呪術と科学の違い
先般の疑似科学論争で思ったこと。
大体すべての行為は、元を辿れば呪術なんじゃないの。
呪術(じゅじゅつ、magic)とは、目的を果たすためになんらかの現象を起こそうとする行為、もしくはその体系。
呪術 - Wikipedia
思うに、「不定の存在」たる我々人間には、他の動物のように強い「本能」というものが備わっていないので、まず何かを為そうという強い方向付けが所与のものとしては存在し得ないし、なにかを為そうと思ってもその方法については思考しなくてはならないから、思考の過程においても当然、その方法論の意味や根拠を探ることになる。例えば昔の人に山が噴火する理由はわかりようがないから、山とか大自然という超越的な存在を擬人化することで自分の理解可能な領域に定義しなおし、さらに噴火のイメージからそれを怒りという感情と括りつけ、そのうえで自分なら何がうれしいか、何によって怒りを収めるかを思考し、生贄に若い女性を捧げていたのだろう。また、人間超越的な大自然と自分の目の前にいて触れることも出来る若い女性とでは、感覚的に考えてレイヤーが違いそうだから、これは殺して魂のレイヤーに昇華させないと大自然様のもとに届くまい、と考えたのであろうことも想像がつく。
生贄は山の噴火の因果とまったく相関がないから、現代でこんなことが行われたらトンデモ中のトンデモではあるが、なかには、当時の風習にも現代の視点から見てもそれなりに確からしいものもあったかもしれない。Wikipediaの上と同じページから引用すると、『たとえば、雨乞いの儀式で狼煙を上げさせる。上空の水分が煙の不純物を含み、大気中の水分が重くなる事によって、雨を降らせる。これは奇術か?いや、むしろ科学的根拠と裏付けがあり、証明されている事』*1なのだそうだ。つまり、この段階において、科学も奇術も宗教もそういった区別は特になかったはずだ。単に<それっぽい人>が提唱する<それっぽい方法論>であるから信じるに値する、という純粋に政治的な枠組みでものごとが決定されていたのではないだろうか。
現代の話に戻そう。我々は何故、科学的なものを特別に信じるか。それは、それが十分に合理的だからである。そして科学に裏付けられた技術が、現にわれわれの生活を便利で、豊かなものにしてきたことを知っているからだ。現代における<それっぽい人>とはつまり<科学者>であって、<それっぽい方法論>はその合理さ故に、政治的にも公原理として受け入れられた。
しかし、科学とはなにか。何らかの命題【及びそれの真偽を検証する方法論について、それが科学的であるかを判別する】*2ことは可能である一方で、「科学」に対応する対象物がどこかにあるわけではない。「科学」はそれら「科学と思しき命題」の無限の集合であると考えることも出来るが、無限の集合もまた、どこかに存在するものではない。
我々が「科学」という言葉にいかなる意味を持たせているかと言えば、それはまさに「科学」とそうでないものを区別する方法であると言えるのではないか。具体的に言えば、「帰納」や「演繹」という方法論がそれにあたる。
この仮説が意味するところは、科学的なもの自体は科学ではなく、科学的なものとそうでないものを区別する境界線こそが科学だということだ。より一般化すれば、次のようにもいえる。行為に意味はなく、それを区別することにこそ意味があるのだと。
区別の境界線はいかようにでも引ける。いかようにでも引けるからこそ、合理的な根拠が必要なのだろう。
私が、科学について教条的であると感じる人たちは、どこかに「科学」という超越的な存在や、普遍的な概念、絶対的な真理のようなものが存在しており、「科学」と「それ以外」の境界線が「ある」という認識があるように思う。境界線は「ある」のではなくて、人間が「引く」ものではないかと思う。
*2:【】内訂正。
作者:chnpk
更新日:2008年12月30日 10時26分
[経済][金融]日本の需要不足を解消し、経済を回復させる<帝国主義>
拙記事『景気対策とやらを政治に期待するのが土台無理なんだと思うよ - よそ行きの妄想』のつづき。
需要創造の必要性
景気後退局面への世界的な突入を受けて、各国政府及び中央銀行はその対応にいろいろと忙しそうだが、財政出動や金融緩和による供給拡大で相応の効果をあげることが出来るとは私には到底思えないと前回書いた。根本的な問題は需要の不足にあるから、そこをスルーしてはならないのではないか。生産性を高めたり、供給量を増やしたりしたところで需要がないのだ。急場凌ぎの供給対策ではなく、需要不足の問題に向き合う必要がある。池田信夫氏のブログでは、『日本経済の最大の病は、需要不足でもクレジットクランチでもなく、この投資機会の不足である』*1と断ぜられているが、これは明らかに因果関係がおかしい。需要が不足しているからこそ、投資機会も不足する。もし国内に潜在的な需要がなにかしらあるのであれば、企業はその需要に対応した製品やサービスを開発し、提供することを試みる。そしてその過程において設備投資がなされ、それが投資機会となる。つまり、投資機会とは、資金に対する需要であり、その不足とは需要の不足に他ならない。
需要が急激に不足している原因については、前回と一部重複はするが、ひとつには信用収縮の影響が挙げられよう。サブプライムローンなどの証券化商品を活用した極めてアグレッシブなリスク管理システムが崩壊したことで、同システムの運用を担っていた高給取りが職を失うと共に、同システムによってクレジット的に下駄を履かされていた消費者たちが、一気に消えうせたのだ。職を失った高給取りは別荘を買い控え、下駄を脱いだ消費者たちは住居を手放している。クルマだって買えない。だからモノが売れないのだ。モノが売れなければ企業も設備投資を控える。当然だ。企業が設備投資を控えれば、それによって創出されていた雇用もすべて消えうせる。失業者が増える。失業者は当然消費を控えるからさらにモノが売れなくなる。わかりやすい悪循環だ。
さらに悪いことに、わが国に限って言えば、人口自体が自然減少の局面に入っている。人口が減れば需要が減ると言うのは当たり前すぎてなにも付け加えることがない。だからこそわが国は特に、世界的な信用収縮による需要減と、国内の人口減による需要減への対策を講じなければならないと思うわけである。
需要創造の方法論
話を単純にするために、まずは仮に人口が変わらないとした場合の需要創造の方法論を考えてみよう。
- ひとつは、新しい産業を構築することだろう。いまなら、情報通信やエネルギー関連、環境関連などだろうか。そういった新しい産業の必要性を喚起し、インフラに投資し、需要を創造するのだ。よくあるのは、政府が主導してこういった産業が発展するためのインフラに大々的に投資を行うという方法だ。田中角栄が日本列島改造論と称し、日本の工業化を目指し、道路特定財源の導入など交通インフラ投資に対しての積極策をとり、日本をバブル経済へと導いた経緯はあまりに有名だ。政府による安定したインフラ投資は雇用を産みだし、その雇用者において需要を生じせしめ、さらに産業の発展がその需要を産むという循環だ。こうした政府による財政出動的な経済対策を考えるにあたっては、2つの論点が有効なように思う。
- まず、まさに日本の建築業界の現状が示すように、国家が安定的な投資を実行することで、産業が非効率化する可能性だ。『フジサンケイ ビジネス・アイ』によれば、『鹿島、大成建設など日本の大手5社でみても、売上高に占める海外売上高の比率は、欧米大手5社の平均が54.8%であるのに対し、わずか14%にとどまっている』*2のだそうだ。そして、『08年度の国内の建設投資の見通しは約49.4兆円で、ピークの1992年度(約84兆円)に比べ、約6割の水準にまで減少するなど市場は大きく縮小している』*3ために、この問題を受けてなんと『国土交通省は12月にも有識者からなる検討委員会を立ち上げる方針』*4なのだそうだ。長年の養殖培養ですっかり競争意欲をなくした建築業界は、内需の減退による海外進出を余儀なくされるにあたっても、政府の支援や後押しに頼らざるを得ないという惨状に堕している。競争力を持たない産業に持続可能性がないことは明白であり、今年倒産した上場企業は30社超と何かの記録を更新したらしいが、そのほとんどは建築業界である。現状の不景気の原因の一端は建築業界の国際競争力のなさにあるといっても過言ではなかろう。上記した情報通信や、環境・エネルギー関連産業について、またこれと同じことを繰り返すのだろうか?
- 次に、あなたが何らかのビジネスを興すことを考えてみて欲しい。まともな判断能力を持ち合わせていれば、どれだけ精緻な需要分析を行い、どれだけ綿密な投資計画を策定し、どれだけ豊富な資金に裏打ちされていようと、そのビジネスの成功の確率については、不確実であるとしか言えないことはわかるだろう。そのビジネスが前例のあるものでなければなおさらだ。よくいわれる喩えだと思うが、厚い霧に覆われたなかでの無視界の航行を、地図もなく、手元のレーダーだけでなんとか乗り切る感覚とまったく等しい。手元のレーダーは数km先の暗礁の位置を大まかに示すだろうが、舵をきったところで既に船体が完全に暗礁に取り囲まれていたら、手の施しようはないのだ。リアル・オプションなどの近年急速に発達したリスク管理手法は、ある程度精度の高いレーダーとして機能しようが、世の中にはいかにしても排除できない不確実性の方が断然多いことは、もはや自明である。だからこそフランク・ナイトは「完全競争の下では不確実性を排除することはできないと主張し、その不確実性に対処する経営者への報酬として、利潤を基礎付けた」*5のだ。さあ、あなたはわが国政府にそうした不確実性に対処する特別な能力があるとお思いだろうか?そしてわが国の財政状況を考えたときに、それが失敗したときの代償を払うことが可能だと言い切れるだろうか?もはや、借金は増えましたが一時的ではあるものの雇用も創出されてよかったでしょ、などと戯言を言っている余裕はない。
- 新しい産業を構築せずとも、既存の産業に対する需要が金銭的な理由によって非充足である層に信用を付与しさえすれば(つまり貧乏人にカネを流せば)、需要が創造されることと同じである。手っ取り早く言えば、マイホームに対する憧れはあるが収入が低いためにローンが組めない層に対して信用を付与する方法論が発達すれば、住宅需要は増加するということだ。ところが既にご察しの通り、これは、一昨年までの数年間にわたって実に積極的に取り組まれ、昨年その構造的な脆弱性が発覚するや否や市場の大暴落を引き起こし、挙句世界経済における異例の信用収縮に発展した、例の証券化の仕組みのことなのである。であればこれについては以下の2つのことが言える。
- 低所得者層に資金を融通するための方法論を考案する取り組み自体は、今後も継続して為されるべきであろうが、では今、そうした取り組みに積極的になる投資家や投資銀行はいるだろうか?
- むしろ今回の騒動を受けて、世界的に金融期間に対する規制は強化される方向である。金融機関からしてみれば、自らが保有する資産についてのリスク管理規制が一層強まる中で、リスクの高い低所得者層のような先に対する債権を保有するインセンティブが少しでもあるだろうか?若しくは、社会は、政府が金融機関に公的資金を注入しながら金融機関に対する規制を緩和するべきなのだろうか?それが極度のモラルハザードを引き起こすとしても?そもそも、すべてが明るみに出たあとで、単純に来た道をただ引き返すということは容易ではない。
- 残された道は、高所得者や一部の起業家、資本家などの余剰資金を多く抱えている層に対して、積極的な消費を呼びかけたり、若しくは無理やりに消費させることだろう。これについての論点は、まず何故金持ちが消費をしないのか、そしてそれを解決する現実的な手立ては存在し得るか、である。
- 何故金持ちの欲望は消費に向かないのか。これには当然諸説あるだろうが、私としてはここでたったひとつの理由を提示したい。必要ないから、である。「必要ない」には2つの意味がある。ひとつは、生存のための欲求を満たすには既に事足りており、これ以上の消費は「必要ない」という意味。ふたつめは、貧乏人が金銭の欠如から感じる疎外感や欲望の非充足については、消費ではないほかのもので充たされているため「必要ない」という意味。前者については、特に必要性を感じないため、説明は省略する。後者はつまり、金持ちであればあるほどカネの機能を理解しており、それを消費することよりもなお、貯蓄することによって得られる効用が高いことを知っているのではないかという仮説である。本当は使いたいけど将来が不安だから貯めるのではなく、貯めたいから貯めるのだ、ということだ。資本主義社会においてカネとは、権力であり、自由である。資本として活用することで合法的な支配関係を実現するし、また、政府(中央銀行)の保証によって将来の不確実性を減免するための数少ない有効な手段としても機能するからだ。メルセデスやBMW、ロールスロイスやマイバッハといった、他人よりいいクルマに乗るのは大層快感なのだろうが、権力や自由を求める人間の欲望と比べた場合、些か見劣りするのも確かだろう。たとえば自身の名声がマイバッハを所有することから生じる名声を上回った場合、つまり消費的な方法によらず名声を得ることに成功した暁には、消費活動の限界効用は貯蓄活動の限界効用を下回るのではないか。大衆は、貯金通帳の数字を眺めることが生き甲斐の貯蓄性向が高い人物について守銭奴的と揶揄し嘲笑するが、その守銭奴的な姿こそが人間の本来の姿のはずだ。有難そうに消費を賛美する人間の方こそが不自然なのであり、資本主義社会の家畜といえるだろう。
- これを解決する現実的な手立てはあるのか。まず、無理やりに消費させるというのはナンセンスだ。国家単位でそれを行えば、金持ちはより効率的にカネを貯められる地域に移住するだろうし、もし世界的にそれを行えば、そもそも現状ほどに働く気を失くすだろう。であれば、残された手段は、権力や自由を求めるよりもさらに高いインセンティブを、消費することに対して付与することだ。可能性はある。例えば環境問題などの全世界的な課題に対する取り組みが、非常に高い名声をもたらすということになれば、その環境関連産業に対する消費は、高いインセンティブを持つことになる。おそらく、高額であれば高額であるほどいい。世界有数の金持ちが大挙して押し寄せてそれを買い求める可能性はある。しかしながら、この方法論の問題点は既に上述されている。即ち、その産業をデザインし、それを興すリスクを誰が取るのかという問題だ。まさかこんなにクリエイティブな課題について国家を全面的に信頼するわけにもいかないわけであって、自分がやりましょうという人以外は運を天に任せるしかない。
さて、以上長々と書いたが、ひとつの結論としては、人口が一定と仮定した場合、いまの経済情勢のもとにおいて政府が需要を創造するために出来ることは、実に限定的であるということだ。であればやはり、将来にわたっての人口構造のデザインこそが、政治がもっとも優先的に取り組むべき課題なのではないか。上述した通り、我が国は、少子高齢化問題に直面しており、人口は自然減の局面に入っている。だからこそこの問題には他国にも増して取り組まなければならない。ところが、この取り組みについても一筋縄ではいかないことは明らかで、例えば政府が晩婚化や少子化という昨今の傾向を変えるような手を打つことができるかと言えば、これはまず無理だろう。国民の意思に影響力を持つということことは、産業に対するそうするよりもより一層困難だろう。また、国籍法改正の話題が明らかにしたとおり、日本は移民受け入れに向けても高いハードルがあるようだ。国土も決して広くない。
帝国主義の矛盾
これらの課題を克服し、わが国の人口−需要問題を解決する糸口を模索するために、ここで帝国主義の歴史を振り返ってみたい。その動機についてはやはり諸説あるだろうが、経済的動機を第一にあげる声は大きく、『レーニンによれば、高度に資本主義が発展することで成立する独占資本が、市場の確保や余剰資本の投下先として新領土の確保を要求するようになり、国家が彼らの提言を受けて行動する』*6ことによるとされている。この動機は大まかに言って、まさに現代の問題に通じるものである。内的な需要の飽和を迎えた経済主体が、新たな需要を求めて自己を拡大化させる道を探るのは、至って自然なことと言えるだろう。この後、市場経済や自由貿易といった、かたちを変えた<帝国主義>が世界を席巻し、また金融技術の発展によって急速にマネーが拡大していったことで、この直接的な方向性はすっかり鳴りを潜めていたが、いま世界が直面している問題は世界的な需要の減退なのであり、いかにしてパイを奪い合うのかという点に帰結せざるを得ないだろう。
ところが、この帝国主義が矛盾するところもまた、歴史が証明している。即ち、植民地支配は、いかなる大義名分を掲げようとも、結局はやはり<支配>に過ぎないのであって、民族間の優越的意識という政治的な暴力を前提にしない限り、成立しないということである。<優れた民族>が<劣った民族>に対し<啓蒙>するという図式のもとにのみ、支配関係が成立するから、大儀に沿えば、劣った民族が既に啓蒙され、優れた民族と同等の認識を持った時点で支配関係は当然に解消されるべきものであるにもかかわらず、被支配国家が革命という政治的手段に些かもよらずに、独立や完全な同化を手にしたという例を見つけることはできない。<啓蒙>は支配のためのアドホックな正当化であり、決して果たされることのない目的だったのだ。『「進んだ」科学技術や学問を「遅れた」地域にもたらし「劣った」人びとを啓蒙』*7すべしという意味で「文明化」を標榜し、植民地を次々と獲得した共和制フランスは、結局『アフリカの人びとを「文明化された者」「文明人」とはついに呼ばなかった』*8のだ。考えてみれば当然のことで、経済的な利潤を得るためであれ、政治的な手段による優位性の獲得、つまり武力による支配権の獲得を選択した時点で、その解消は政治的以外にはあり得ない。
<帝国主義>とM&A
さあ、ようやく本題にはいる。私は上で見てきた諸々の課題について、タイトルにあるとおり、M&Aという方法論を活用した解決の方向性を検討したい。それはつまり、<帝国主義>の政治的矛盾点を、経済的に解決する道筋である。
M&Aとはなにか。それは、ゴールドマン・サックス のM&Aアドバイザリー統括責任者を務めた服部暢達によれば『支配権の移動により、売手と買手双方の株主価値増大が見込まれる取引』*9である。ポイントは3つある。まずは、それが(企業の)支配権の移動を伴うものだということ。次に、それが株主価値増大という価値基準のもとで、双方にとってメリットがあるように行われるということ。そして、それが経済的な取引であるということ。この3つのポイントは後に行くほど重要な論点であると言える。
- 最初のポイントは、M&Aの本質が「支配」にあることを的確に言い表す。M&Aの本質的な動機は帝国主義と相違がない。帝国主義が植民地を余剰な生産力のはけ口にするに対して、M&Aの買い手は、対象会社の顧客に対して自社製品をクロスセルする。帝国主義が植民地から安い労働力を確保する一方で、M&Aの買い手は対象会社の資産を効果的に活用するマネジメント手法を導入することで、生産性を高める。支配とは経営権を獲得することだ。経営とは企業の成果に対して責任を持ち、その成果から報奨を得ることにつながる。そして企業の目的とは『顧客を創造すること』*10に他ならない。
- 2番目のポイントが示すことは、M&Aの取引に参加する経済主体は、それぞれ自社の株主価値を最大化するという価値基準を暗黙のうちに共有するということだ。取引の前提となるコンセンサスは、限定的だが、非常に意義深いものだ。それがあるからこそ、取引が成立するのだから。日本語と英語など、言語が異なれば会話の成立が困難であるように、取引は、何らかの価値基準についてのコンセンサスがない限り、成立しない。グローバルに活動する大企業と、老舗の和菓子メーカーの商談が困難なのは、共有できる最終的な合意点のイメージがないからである。
- 3番目のポイントが重要なのは、支配権の移動が金銭的な対価によってなされるというまさにその点においてである。暴力による支配は、先に見たように、それを正当化するための大儀を必要とし、(アドホックな)目的と(実際の)手段の乖離は、「文明化」という<差別からの開放のための差別意識>というパラドクスを生み出した。支配の正当性を「文明」という不確実なものに求めた結果である。一方で金銭は、『予見できない未来の問題が解決可能であるという安心感を、現在すでに与えてくれる。それは確実性の等価物であり、そのおかげでわれわれは、情報や予測なしでやっていける。世界の確実性を保障するのは、もはや神ではなく、金銭なのだ。』*11
これらを総括して、何故M&Aという手法が帝国主義的な支配から生じる負担を解消し得るかという問いに答えるとすると、生産性の増強という経済的な動機と、金銭的な対価の支払という経済的な手段が適合するからだ。そして、自由主義、市場経済による啓蒙は、経済的な手段に対するコンセンサスをつくりあげたと言える。いまわれわれは、ついに質的にも量的にも存分な陣取り合戦を再開するための下地を得たということになる。
M&Aの実行可能性
M&Aが帝国主義の抱える矛盾を解決することができる可能性について、つまり何故それが実現し得るかについてはすでに検討した。では次に、それは如何にして為されるかを検討しよう。それは端的に言って、『未来に生ずる未知の危険を、金銭取引のリスクというモデルでとらえること』*12によって為されるだろう。
M&Aにおけるリスク評価の「モデル」は、企業価値評価又はバリュエーションと呼ばれるものである。上に引いたM&Aの定義を思い起こせば、M&Aに際して支払われる金銭、即ち移動する支配権の対価について、次の2つの要素に分解することができる。ひとつはフェアバリュー、そしてコントロールプレミアムである。
- フェアバリューとは、その名の通りその会社の適正な価値であり、理論的には、その会社が将来生み出すキャッシュの現在価値の総和である。これについて詳しい説明は面倒というかそれだけで数エントリー分に相当するので、気が向いたらまた来年にでも書くとして、ここではざっくりとWikipediaでも参照して済ませたい→DCF法 - Wikipedia。とはいえ、行きがかり上簡単に説明する。いま、100万円の資金があり、利子率が1.0%だとすると、百万円だった元手資金は、1年後には101万円になる。このことを言い換えると次のようになる。利子率が1%だとすると、1年後の101万円の割引現在価値は100万円であると。そしてこの利子率をより一般化した言い回しに直すと、「割引率」ということになる。銀行預金の現在価値を算出する際に適当な割引率は利子率だということだ。さて、企業が将来生み出すキャッシュの現在価値を算出するにあたっての割引率は、単純に利子というわけにはいかない。WACCという株主資本コストと負債資本コストを加重平均した値を使うことが一般的だ。そして、負債資本コストとは要するに調達利子率のことだが、株主資本コストはまたややこしい。この算出にはCAPMというモデルが用いられることになる。先端のバリュエーションではさらに、戦略の自由度に基づくオプション・バリューも加味される。このあたりの価格算定方法は、この記事内でもおそらくもっとも専門的で完全な理解は難しい部分ではあるが、はっきり言って一番どうでもいい部分でもある。ごちゃごちゃと細かい計算をするよりも、現場的にはむしろ、市場での取引価格の方がよほど説得力があるからだ。業界的には、市場での取引価格は、上で書いたような理論式にさらにさまざまなリスク要因を総合した結果である理論価格に長い目で見れば収斂するもの、と捉えられており、実務上はフェアバリューといえば、大概は取引価格の平均である。この割引現在価値による評価を「インカムアプローチ」、市場価格に基づく評価を「マーケットアプローチ」と言うが、もうひとつは「コストアプローチ」または「ネットアセットアプローチ」と呼ばれる手法である。これはつまり、企業の有する資産と負債の差額を持って、その企業の株式価値とする方法論である。ここで注意してもらいたいのは、企業の資産及び負債は単純に帳簿に載っているものだけではないということだ。企業には通常、無形の財産というものがある。ブランド価値はその最たる例だ。ナイキが保有する資産のうちでもっとも価値のあるものは、その商標であることについては論を待たないだろう。これらを総称したもの、つまり帳簿上の(時価)純資産とフェアバリューの差額は一般に「のれん代」といわれる。
- 次にコントロールプレミアムとは、まさに支配権の移動そのものに対して支払われる対価である。これがなければ、フェアバリューが正確な値である限りにおいて、売り手も買い手も損も得もしないことになる。1,000円の価値があるものを1,000円で売買しても、何の経済効果もない。その1,000円に何らかの付加的な価値がアドオンされてこそ、経済的に意味のある取引となるわけだ。では、このコントロールプレミアムはどこからくるのか?これはまさに買い手が、売り手よりも、対象会社の資産を効率的に活用し、また買い手の事業と対象会社の事業との間における相乗効果が発揮されることを期待することによって発生する。
少し説明が冗長になったが、理解していただきたいことは、ひとつには、これらの専門的なバリュエーションに関する知識の目的はすべて、未来の不確実性を記述し、それを金銭的な経済モデルに落としこむことにあるということだ。こうしたリスク分析の手法は、神々への反逆として従来敬遠されてきた分野ではあるが、近年急速に発達してきている。これらを活用することのみが、M&Aを十分に合理的な取引たらしめ、純粋な暴力支配とは一線を画すことを叶える。
ふたつめは、M&Aを推進する場合のキーとなるドライバーは、コントロールプレミアムを支払うための源泉となる優位性の存在に他ならないということだ。日本企業を総体として考えた場合に、そのような優位性が果たしてあるだろうか?それがなければM&Aは成約し得ないというのは、既に述べたとおりである。この優位性として確実にいえることのひとつは、最近の円高傾向だろう。円が相対的に高い水準であれば、円建ての評価額ではフェアバリューと同程度かもしくはそれを下回るにもかかわらず、現地通貨建ての評価額ではフェアバリューを大きく上回るということすらあり得るからだ。日本円が相対的に高いということは、日本の通貨に対する信頼が相対的に厚いということだから、企業間の取引におけるコントロールプレミアムの支払が国家の信用によって補完されるということであり、これは間違いなくM&Aの推進力になるだろう。また、日本企業特有の官僚主義的な組織制度も、買収対象会社の価値を向上させるひとつの手段となるかもしれない。『日本の製造業の労働生産性はアメリカの1.5倍』*13だそうだから、この高い生産性の源泉たる組織制度を買収対象会社に適用すれば、大きな付加価値を創造できるかもしれない。これについては、以前に『日本のいいところ - よそ行きの妄想』という記事も書いているので、あわせてご高覧いただければ幸いである。
国民国家の終焉
最後の論点は、M&Aによってなにが実現されるのか、である。これは何度も述べている通り、基本的には、減退していく国内需要の補填である。先にもふれた共和制フランスの軍人であり、1931年の植民地博覧会では総責任者を務めたルイ=ユベール・リヨテが「フランスの将来は海外にある」と述べたように、日本の将来もまた海外にあるのだ。
これについて、つい先週の日経新聞一面にも載っていた、タイムリーな以下の話題を題材にしたい。
日清食品ホールディングス(2897.T: 株価, ニュース, レポート)がロシアで即席めん事業に参入する。同社は26日、ロシアの即席めんメーカー最大手、マルベンフード セントラルの持ち株会社アングルサイドと資本業務提携を行うと発表した。
ロシアの年間即席めん総需要は約20億食で世界有数だが、一人あたりでは年間約14食で、日清食品では拡大の余地があると期待している。
アングルサイドの製造・販売会社を含めたマーケットシェアは41%、2008年度グループ売上高は約310億円の見通しとなっている。日清食品はインスタントラーメンの製造に関する技術の指導などを行う。
日清食品HD<2897.T>がアングルサイドと資本提携、ロシアで即席めん事業に参入 | Reuters
日清食品が、自社の即席めんをロシアに輸出することと、ロシアの即席めんメーカー最大手を買収することには大きな隔たりがある。単純な輸出を考えた場合、既存のナショナル企業が提供する商品・サービスの隙間を縫って、新しい需要を創造していかなければならないのに対し、買収を考えた場合は、既存の需要を一気に獲得し、大きな足がかりを得ることが出来る。わざわざ新商品・サービスのイノベーションやマーケティング戦略に頭を悩まさなくていいという意味で、これは雲泥の差と言える。なんぼ日清の『具多』が美味かろうが、異国の地で、「具たくさんの即席めん」という潜在需要を開拓する不確実性は並大抵ではないはずだ。
海外市場への足がかりができれば、日本企業の生産量は増え、また海外市場が人口の増加を続ける限り、安定的な成長も見込まれる。安定的な成長の下地があれば、新しい商品やサービスなどに対する投資も活発化するし、なにより子会社の管理や子会社への殖民という重要な職務が国内に発生し、雇用の創出にも繋がるだろう。兎にも角にも需要が減退していく中ではなにをやってもうまくいかないという状況が一変するのは大きいはずだ。
こうして、日本企業による海外企業のM&Aが進むことにより実現されるのは、国民国家の枠を超越した広域経済圏に他ならない。これは、現在のわが国政府が企てる、大規模な財政出動と増税をセットにした経済対策(笑)の先にある「大きな政府」の方向性とはまったく逆で、「小さな政府」、そして「大きな経済圏」の方向性である。毎度好不況を繰り返すたびに、「小さな政府」「大きな政府」の二項対立の図式が顕在化するが、そろそろ国民国家という枠に対するこだわりを捨て、政治や経済ごとに、異なる枠組みでものを考えるときが来ている。政治は小さいほうがいいし、経済は大きいほうがいいのではないだろうか。
おわりに
こうした方向性に則れば、政府のとるべき方針はいくつか具体的に示すことはできる。
- ひとつには円高を許容すること、
- そして小さな政府を目指すことである。
急場しのぎの金融緩和や財政出動、為替介入などで、競争力のない輸出企業や伝統産業を保護・救済し、何とかこの場を取り繕うことに腐心するのであれば、日本の将来はますます暗いものになるのではないだろうか。
■追記(1/5)
明けましておめでとうございます。
長々と書いた割には反応が乏しいので、DMを送ることにしました。池田信夫blogにトラバ送ってもなんか拒否されるし。
ということで、上の記事の前編にあたる『日本の需要不足を解消し、経済を回復させる<帝国主義> - よそ行きの妄想』をブクマしてくれた方全員と、『このブログの運営方針と、今後書きたいこと - よそ行きの妄想』をご覧になって期待を表明して下さった以下の方々に、IDコールを送らせていただきます!
当記事について、既に見たけど興味ないという方、申し訳ないけど無視してください。それでは、本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
ID:R2M ID:wiseler ID:yantan ID:T-norf ID:munyuu ID:TZK ID:massunnk ID:Thsc ID:geul ID:onigiri_srv ID:freeid ID:siromori ID:zu2 ID:Ubuntu ID:arrack ID:knnn4321r ID:kitakyudai ID:shiro_46 ID:chnpk ID:otimusha2005
■追記の追記
・・・。
あれ。
追記のIDコールってメールとかいかないのかなー。自分に来ないんだけど。
*1:『リスクヘッジからリスクテイクへ - 池田信夫 blog』より引用。
*2:『総合/建設、海外に商機あり 国交省が業界を後押し - FujiSankei Business i./Bloomberg GLOBAL FINANCE』より引用。
*3:同記事より引用。
*4:同記事より引用。
*5:『フランク・ナイト - Wikipedia』より引用
*6:『帝国主義 - Wikipedia』より引用。
*7:『フランス植民地主義の歴史―奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』より引用。
*8:同書より引用。「進化した者」とは呼んだようだ。
*9:『実践 M&Aマネジメント』より引用。
*10:『マネジメント - 基本と原則 [エッセンシャル版]』より引用。
*11:『世界コミュニケーション』より引用。
*12:同書より引用。
*13:『トヨタの長すぎた栄光 - 池田信夫 blog』より引用。
作者:chnpk
更新日:2008年12月29日 17時10分
このブログの運営方針と、今後書きたいこと
このブログの説明。
運営方針
このブログというかダイアリーは、私の妄想の保管庫、私の脳の外部拡張メモリーです。ここに書いておけば忘れないし、検索も容易、どこにいてもアクセスできます。基本的に政治的な意図は一切ありません。
それをわざわざ公開していることの理由は、他者からのフィードバックを受け、場合によっては思考が洗練されたり、まったく気付かなかった視点を気付かされることなどを期待しています。そして、そのためには読者の皆様が何とか読むに耐える程度のエンターテイメント性は必要であると考えます。このブログでの他者への言及や批判、煽りなどは基本的にその意図です。
今後書きたいこと
以下箇条書きですが思いついたら書き足して、書いたら書いたと書くことにします。書く気が失せたら打ち消し線で。
- 無限にあるということとまったくないということの類似性
- メイド・イン・ヘブンについての考察
- 価値観が生む秩序の必然性 ⇒書いた
⇒さらに書いた
役職と人材の関係- 「ホームレス」という社会的ポジション(2008-09-14 - ブログ漂流に関連して) ⇒ちょっと書いた
- 価値観の無限性とインターネットの功罪
- 脳みそブラウザという可能性 ⇒書いた
- インターネットが実現する価値観の細分化(梅田望夫の書評として)
- 資本主義の構造と近代的な個(資本主義という奇蹟 - 池田信夫 blogに関連して)
- 日本社会におけるセイの法則の崩壊と反セイの法則(森嶋通夫の書評として)
- [価値観][恋愛]
価値観の崩壊の序章としての非モテ問題 - [会社]資本主義社会における企業の意味
- [会社]
大企業と中小企業の分業構造の違い(雨降ってじじいがたまる - よそ行きの妄想のつづきとして) - [会社]企業という社会の構造問題
- [経済][会社]金融業界の栄枯盛衰 ⇒書いた
- [経済][社会][ビジネス]価値創造型企業から価値観創造型企業へ
- [ヒト]
相手の気持ちになってみろということの無意味さ - [会社][価値観]M&Aと帝国主義の類似性(はてなブックマーク - 高齢化社会における企業組織についての必然性 - よそ行きの妄想のやり取りを踏まえて) ⇒ちょっと書いた
⇒書いた
- [会社][ヒト]ベネフィット、バリュー、プロフィット
- [秩序]自然と人間の境界(自然界の厳しい掟です/GSV/ホームレス - 過ぎ去ろうとしない過去への呼応として) ⇒書いた
⇒こっちにも書いた
- [価値観][恋愛]無自覚な恋愛主義ファシストに見る社会秩序(恋人をつくるために大切なたった1つのこと - iGirlに関連して)
- [価値観]世の中に蔓延する「潔癖さ」の系譜について ⇒書いた
- [生活][組織]家庭内の分業と快楽のアウトソース
- [金融]はてなのみんなには日本株をオススメしたい理由(はてなーにもわかる金融業界の栄枯盛衰※追記あり - よそ行きの妄想に関連して) ⇒書いた
- [会社]単なる営業会社はもう世の中に必要ない
- [価値観]道徳的な潔癖さが蔓延するとバカがどんどん不幸になっていくということ ⇒書いた
- 日本経済の回復に向けた需要創造の方法論について(08/12/16追記)⇒書いた
- 格差問題について(08/12/16追記)
- 「ニセ科学」批判と大衆化(08/12/16追記)
- 呪術と科学的なものの境界線(08/12/16追記)
- 「先送り」の価値(08/12/16追記)
- <老人>について(08/12/16追記)
- ブクマ数シミュレーションモデル(08/12/16追記)
作者:chnpk
更新日:2008年9月4日 4時30分
[ヒト]「会話の通じない人」は最強か
ついさきほどふと目にとまった『今も昔も会話の成立しない人最強』*1というブクマコメントについて。
私は金融業会で、M&Aなんかの仕事を中心に取り扱っている。弱小証券ではあるが。「会話が通じない人」に出会うケースは多い。
通常、M&Aを進めるにあたっては、経済合理性や法知識などに則ったコミュニケーションをこころがけるのだが、相手によっては政治的なコミュニケーションや道徳的なコミュニケーション以外はまったく理解しようとしない人がいる。
非常に単純かつわかりやすい例で言うと、「会社は誰のものか」。法的に考えれば会社の財産は最終的には株主に帰属するから、会社は株主のものだと言っていいのだろうが、世の中には会社は従業員のものだとか、お客様のためにあるのだ、と言ってはばからない人は後を絶たない。これは、コミュニケーションの基盤が異なるということだ。
M&Aの話ですよ、と前提をおけば、大概の人はいくら自分にとってなじみがあるのが道徳的コミュニケーションであっても、それは一旦忘れて、無理をしてでも経済合理性や法的なコミュニケーションにあわせてくるものだが、それをまったくしない人というのも結構いる。
あるときは、こちらがいくら、取締役会としても株主の手前極端に非合理的な意思決定はできないという説明をしても、信義を通せの一点張りで迫ってくる。またあるときは、こちらがどれだけ、定量的なリスクを説明しきっても、不安感情を優先する以外の判断基準をもてない。
これが、はてな村での議論(笑)であれば、お互いに「あいつは話の通じないバカだ」ということにして、あとは妖怪どっちもどっちの登場を待つだけということになるが、ビジネスではそうもいかない。話をどこかにまとめなくてはならないからだ。いくらかの妥協をしてもなお、まとまったほうがまとまらないよりも経済的なメリットが大きいからだ。
そういった局面において、上にあげたような「会話が通じない人」は果たして再強か。
確かに、会話が通じないだけあって、こちらの要望を通すのは確かに難しい。何を言っても同じ答えが返ってくるわけだ。さらに、そういう人に限って無駄に声が大きいので、段々精神的にへこたれてくるのも確かだ。どうでもいい問題であれば、じゃあそれでいいですよもう、と言ってしまいたくもなる。いわゆるゴネ得というやつだ。
ただ、何かしら落としどころを設けて、話をまとめなくてはならないような重要な話の場合、彼らが有利だったという記憶はまったくない。相手が「会話が通じない人」であれば、落としどころはどちらかといえばこちら側にくるのが、経験上通例だ。
仕掛けは単純で、相手はこちらの言っていることがわからないのに、こちらは相手の言っていることはわかるから、朝三暮四的に落としどころを適当に用意して、そこに引っ掛ければいいわけだ。
であるから私の認識では、コミュニケーションの基盤を多く持っている人こそ強い(落としどころを自分側に持ってこれる)ということになる。
「会話が通じない人」が最強なのは、それこそはてな村の議論(笑)のような、勝ち負けという二元論的などうでもいい枠の中だけだと思う。
交渉ごとについては、『子育てに見る交渉のかんどころ - よそ行きの妄想』も、
M&Aとかの話は、『日本の需要不足を解消し、経済を回復させる<帝国主義> - よそ行きの妄想』もよろしく。
作者:chnpk
更新日:2009年1月7日 8時0分
[雑談]派遣村の話でよくわからないこと
正月に実家でテレビを見ながら、どうせはてなでは盛り上がるだろうななどと思って眺めていた話題、それが派遣村。
派遣村のマクロとミクロ
派遣村とはなんぞやという問いについては、以下の引用部分を参照されたい。
「派遣切り」などで仕事と住まいを失った人を対象にした東京・日比谷公園の「年越し派遣村」に、労働者が続々と詰めかけてパンク状態となり、近くにある厚生労働省は2日、要請に応じて省内の講堂の緊急開放に踏み切った。約250人が講堂に移った。
労働組合や市民団体などでつくる実行委員会の想定の倍近い約300人が集まり、用意したテントが足りなくなったため。昨年末から急激に切迫した雇用問題は、中央官庁が職を失った人を庁舎に迎え入れる異例の事態になった。
asahi.com(朝日新聞社):年越し派遣村へ続々、300人突破 厚労省が講堂を開放 - 社会
あまりにもありがちな話題だ。不景気で雇用が減少し、失業者が増えれば、こういう騒ぎが起こるのは必然といえる。そしてこうした騒ぎにかこつけてサヨクがこれ見よがしに思想信条をアピールするところまで完全な予定調和といえる。
私は今更ウヨクさんやサヨクさんによる綱引き劇場に参加する意欲はまったくないので、この話題についてはきっちりスルーするつもりが、下の人物の下の発言のせいで、ついうっかりエントリーをあげてしまった。
坂本哲志総務政務官は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、仕事と住まいを失った派遣労働者らを支援するために東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」に触れ、「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。
派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 - 毎日jp(毎日新聞)
何故この発言が気になったかと言えば、うちの父親がまったく同じような発言をしたのだ。テレビを見ながら。「こいつらほんとに働く気あんのか」と。「内容にこだわらなければ仕事がないはずない」とも。
よくわからないのは、何故急にミクロなレベルの真偽が問題になるのだろうということだ。景気が悪化→雇用が減少→対策が必要→マスメディアでもアピールまではマクロの問題だったはずだ。雇用が減少までが真であれば、必ず失業者は増えている。雇用の絶対数が減っているのだから、新しい仕事に就けない人も必ず存在するはずだ。にもかかわらず、テレビでインタビューを受けているその人や、その場に集まった他の個人の意思や状況を突然問題視する思考回路はいったいどういうことなのか。しかもそういう考え方をする人がいっぱいいそうな気がしたのだ*1。
不快感の仮説
最初に言っておくが、大して確からしい仮説は出てこない。
この件を考えていて、まず思い出したのは「ニセ科学」の話だ。ここで「ニセ科学」とは、『科学ではないのに科学を装っているもの。つまり「科学ではない」と「科学を装っている」の両方を満たすもの』*2のことらしい。そしてこれを批判するニセ科学批判者の動機は、『人それぞれ』*3らしいのだが、代表的なものに、ニセ科学は科学の権威を利用した詐欺的な行為であり、偽札が罰せられることと同様、許されるものではあり得ない、という義憤がある。
この理路は、派遣村批判者にも適応することが可能だ。即ち、派遣村の人による政治的宣伝行為は、失業者の悲惨さを利用した詐欺的な行為だという義憤である。ニセモノが跋扈するとホンモノの価値が下がる、この場合、本当に凄惨な生活をしている失業者に救いの手や衆目が行き渡らなくなるとでも言おうか。あるいはこうも言えるかもしれない。ニセ科学が不当な権威付けによって購入者に経済的な損失をもたらすように、ありもしない社会問題を捏造して政府に対策を迫ると社会的に無駄なコストが発生する可能性がある、とか。
ただどうもこの手の動機というのは、後付けの気がする。普通に考えて、多数の人にとって、ニセ科学に騙される被害者や、本当に凄惨な生活をしている失業者は、見知らぬ他人である。その見知らぬ他人の、存在するかどうかも分からない被害について、【確かに明日は我が身とはいうけれども、】*4そんなに我を忘れるほどに怒りの感情を持てるものなのか。
上で引用した坂本哲志総務政務官の発言は明らかに配慮を欠いている。「本当にまじめに働こうとしている人」かどうかという、立証が困難なことが明らかな基準を持ち出して、"マクロ的に考えれば存在すること自体は明確なカテゴリー"を批判したのだ。そんなことをしたら立場が悪くなることは私でもわかる。政治の世界で生きる人物がそんなことに考えが及ばないということがあるのだろうか。考えられるのは、あまりにも不快だったために我を忘れてしまった可能性だろう。
社会的な損失を減じ、または未然に防ぎたいのであれば、坂本哲志総務政務官は、雇用が減少していないことや、働く気さえあれば仕事はいくらでもあること、失業者への対策に際しては、生活保護よろしく本当に働く気があるのかどうかの厳密な審査を行うべきとする旨の主張などを淡々と説明すべきだった。姑の小言さながらに主観的な難癖をつけてみたところで、事態が変わるわけでもないし、誰を説得することもできない。
単純にサヨク的イデオロギーが嫌いという可能性もある。ちなみに私は嫌いだ。以前にここのブログで『ただのサヨクとただのウヨクと - よそ行きの妄想』として書いたのだが、要はサヨク的思想は現状を批判させれば素晴らしい成果をあげるが、理想に固執するあまり、なんの実現可能性ももたらさないからだ。それでは時間の無駄なのだ。だから嫌いだ。ところが、本件に限って言えば、派遣村の人は政治的宣伝というかたちで、さもありそうな失業者対策という問題を具体化させ周知するという行為をとっている。それ自体に何の問題もない。むしろ失業者対策を充実させたいと思えば、政治的活動は不可避だろう。そういう意味で、私は本件の活動家諸氏というか、派遣村の人たちが実はサヨクだろうが何だろうが一向に構わない。
今回の件で、サヨク批判をするというのは、それは自分がウヨクだからじゃないのか。それならそれで当然結構なのだが、ウヨクとサヨクの綱引きがいつまでたっても決着がつかないのはいまや自明である。そういう趣味の領域の話は出来るだけ人目につかないところで、どうかひっそりとやって欲しい。社会を発展させるような議論にはつながりようがないからだ。
バカバカしい話だが、「甘ったれたことを言うな」という趣旨であれば、わからなくもない。誰だって、甘えられるものなら甘えたいはずだ。そこをなんとか堪えて自分は頑張っている。お前だけ甘やかしてもらおうなんてズルイという考え方は、なかなか原始的で単純なだけに説得力がある。
しかしそれはあまりにもバカバカしい。大の大人が言うセリフではない。木を見て森を見ないにもほどがある。いち個人がズルイかズルくないかの判断はとりあえず置いておいて、社会的に雇用不足という問題が本当にあるのかどうか、どういった対策が必要かどうかを考えてもいいんじゃないか。
■追記(1/7)
案の定と言うべきか、上の件、池田先生がきっちり炎上させていた。
曰く、『完全失業者は250万人もいるのに、なぜ日比谷公園に集まった500人だけを特別扱いするのか。』*5とのことなのだが、派遣村の人たちの主張はそんなにミクロなものだったのか?だとしたら上の私の疑問はすんなり解決してしまう。ミクロの主張を検証するにはミクロのレベルの真偽が重要だからだ。私はてっきり「250万人の完全失業者」全体に対して、手厚い保護をすべきだという政治的主張がメインだと思っていたが。
そもそも、池田先生自体、『完全失業者は250万人もいるのに、なぜ日比谷公園に集まった500人だけを特別扱いするのか』(ミクロな目的だ)と煽る一方で、『もちろん「政治活動を主目的に活動している」ことは明らかだ』(マクロな目的だ)と言う。いや、それ、ムジュンしてるだろ!
■追記
全然関係ないけどどうかこちらも見て行ってください。どちらかと言うと反応が欲しいと思いながら書いた記事にむしろ反応が少なく、がっかりしています。
*1:と、思ってたらやっぱりいっぱいいた⇒『痛いニュース(ノ∀`):【派遣村】 「集まったのは、本当に働こうとしている人か疑問」「学生紛争のときの戦術が垣間見える気がした」…坂本政務官』
*2:『ニセ科学批判まとめ %作成中 - ニセ科学の定義』より引用。
*3:『ニセ科学批判まとめ %作成中 - 何故ニセ科学を批判するのか』より引用。
*4:【】内は追記。
*5:『「派遣村」の偽善 - 池田信夫 blog』より引用。
作者:chnpk
更新日:2009年1月6日 2時16分
[雑談]正しい読解なんてなくていい
『それを個性とはよばない - 北烏山だより』を読んで、軽い違和感を覚えたので。
本件エントリーを要すると、
中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。
「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」
そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。
という問題提起からはじまり、
「みんなちがって、みんないい。」
まったくそのとおりで、そのことじたい、異論はない。
けれどもそれは、文学なら文学の、社会生活なら社会生活の、一定の「お約束」をクリアしたうえでの話だ。
と繋げ、
「お約束」の部分を押さえずして、何が「教育」だ。
自らの思想や道徳観を押し付けることとの違いをふまえずして、何が「教育者」だ。
としている。
この「お約束」というのは、あくまで国語なら国語という学問の世界の中だけの話ではないのだろうか。そして「学問の世界のお約束」は個性の是非とは全然別の話ではないのか。
確かに、この先生に相談したという保護者も『先生の読みとはちがっていて』という先生個人を槍玉に挙げるような発言をしていることから大いなる勘違いを感じるものの、それに対する反応としてでさえ、読解の正誤という「学問の世界のお約束」を個性を発揮することの前提に置くのは随分見当違いな気がする。
例えば、「うちの子の個性は学問のルールに順応できない可能性を感じる。学問に疎いだけで将来を棒に振るようなことは避けたいのだがどうしたらよいか。」という相談があったとする。これに対しても、「それは個性とはよばないのです」と言うのだろうか。こういう場合はむしろ、人それぞれ個性があるのだから、得意な分野を伸ばせばよいなどと言うべきではないか。
エントリー主は上述の通り「みんなちがって、みんないい。」世界を肯定しているが、その世界は「お約束」をクリアしたうえでのものだと言う。果たしてそうだろうか。「みんなちがって、みんないい。」世界と「お約束」の世界は延長線上ではなくて並立であるべきではないのか。極端な話、知的障害などを患っていて「お約束」をクリアできない人は「みんなちがって、みんないい。」世界には到達できないのだろうか。だとしたらどうなってしまうの。「とにかにダメ。」みたいな世界に行くのか。
要するに、私が感じた違和感は、この2つの世界を重構造のようにして論じることで、学問的な「お約束」を過剰に一般化しようとしているのではないかということだ。エントリー主にそういった意図はおそらくないとは思うのだが、このテクストを純粋に眺める限りにおいては、そういった傾向を少なからず感じてしまう。
思うに、学問とはそもそもが没個性的な価値基準を「学ぶ」ことに他ならない。みんながみんな好き勝手な基準や定義を持ち合ってやいのやいのと、それこそはてなのアルファブロガー(笑)のようにキャッフキャッフしてたら、まともなコミュニケーションにならないから、ある程度のコンセンサスを基準として設けて、それを共有するというのは合理的だ。このコンセンサスの合理性を追求し、導かれた合理的な命題からさらに新しい合理的な命題を導くようにコンセンサスを拡大させ、そしてそれらを周知することが学問だと認識している。
ただ、ではそれらの合理的命題を、合理的だからといって押し付け、盲目的に信じることを強要することまでもが合理的であるとはとても思えない。世の中はまったく不確実で、絶対的なものなどなにもない。その中にあって合理という尺度を持つことはまあいいことなのだろうが、それを伝える方法として、合理的な内容に絶対性を持たせるような態度は、それ自体が合理的ではない。教育の合理性については、疑う余地が十分にあるのじゃないだろうか。
作者:chnpk
更新日:2008年12月30日 2時50分
[ヒト]母性本能という道徳
『おまえら子供殺す母親の気持ちって少しでもわかる?:アルファルファモザイク』を読んで。
いや、昔まったく同じ疑問を持ったことがある。
子供を殺す行為は、動物にはよく(かどうかは知らんけど)見られるものだと当時聞いた。
言われてみれば確かにそれが合理的な判断となり得る局面は確かに想像できて、例えば、育てられる子供は1匹だという縛りがある動物があったとする。いまあるメスには既に子供が1匹いるという状況で、偶然すごく優秀な遺伝子を有するオスの子を産めそうな機会を得たというような局面。こういった局面においては、既存の子供を殺して(または捨てて)でも、優秀なオスの子供を産むことが、そのメスが自身の遺伝子を後世に残すうえでの最適解だろう。
たぶん母性本能というのは、本能という単語をくっつけることであくまで自然なもののようにされているが、おそらくただの道徳なのだろう。と思った。
作者:chnpk
更新日:2008年12月30日 1時58分